私達はとっくに破顔していた
「……こちらが来月の茶会に掛かる費用です。お誕生日を迎えられるバネッタ伯爵夫人のお好みに合わせて、東国風のおもてなしをしようと考えておりまして。新しい茶器を揃えるのに足りない分は、先月の残りから捻出しております」
「ああ、いいだろう。君の思う通りにしなさい。不足分があれば、予備費から使っても構わない」
「ありがとうございます。ですが、茶会ごときで大切な予備費に手を付けるなど、あってはならぬこと。侯爵家の女主人として、限られた予算内で最大限のおもてなしをしてみせます」
──全く真面目だなと、夫は妻を見て思う。
決して困窮している訳ではない……どころか、領地経営も新しく始めた事業も順調で、金なら有り余るほどあるというのに。
きっちりと纏められた髪に、化粧っ気のない顔。紺やら灰色やら、いつも地味な色のドレスを着回す彼女。
まだ若く、せっかく顔立ちもスタイルも美しいのに、落ち着いた雰囲気や乏しい表情が相まって、一見すると中年の夫人に見えてしまう。
だが、夫はそれで構わなかった。
侯爵家の跡取りとして、幼い時から望んでいたのは、『美しい妻』ではなく『有能な侯爵夫人』なのだからと。それに……
詰襟から覗く白い項に、ゴホンと咳払いをした。
「こちらが東国のお茶、こちらはお米で作った菓子です。どうぞお味見ください」
夫はわくわくしながら手を拭う。
妻の素朴で温かい手作りおやつを、毎日楽しみにしているのだ。
「……うん、美味しい。独特の食感がクセになるな。緑の茶にもよく合うし、この甘辛いソースがまた素晴らしい」
「東国から大豆のソースを仕入れ、砂糖と合わせてみました。やや値は張りましたが、普段の料理にも使えますので無駄にすることはありません」
「これならご夫人方もお気に召すだろう。料理も楽しみだ」
「……はい。では早速、今夜のお魚料理に使ってみますね」
空の皿が載ったトレイを手に、妻は執務室を後にする。シェフへ夕食の指示を出すと、早足で自室へ向かった。
ドアを閉めるなり、タタッと駆け出す。ベッドへぽふんと飛び込めば、ふにゃりと緩んだ口から、ずっと我慢していた呟きが漏れた。
「かっ……かあっこいい……」
溢れた涎がベッドカバーを濡らしていくが、それには構わず足をジタバタさせる。
(なんでっ、な~んでうちの旦那様は、毎日あんなにカッコいいの? というか、毎日カッコいいの限界を更新してくるんですけど! 凛々しくて端正なお顔立ち。絹糸よりも美しい銀のお髪。広い肩幅に、服の上からでも分かる厚い胸板に、スラリと長い御御足。そして何といっても、氷の侯爵と言われる、あのクールな雰囲気が堪らない!!)
うつ伏せのまましばらく悶えると、寝返りを打ち、ごろんと仰向けになった。
が、真っ白な天井にも夫の姿が浮かんでしまい、ヘラヘラと笑い続ける。
(もっと堪らないのが……私の作ったおやつを食べる時だけは、クールな雰囲気が一転、小さな子供みたいな笑顔になるとこ。んも~!! 可愛い! 尊い! 死んじゃう!! それともう一つ、いつもとは違う旦那様を見られる時が……)
ちょうどベッドに寝転がっていたこともあり、夕べの生々しい記憶が妻の頭を掻き乱す。
(きゃあっ! 真っ昼間から何考えてるのよ! この変態っ!)
ベッドから飛び降りると、妻はドレッサーの椅子に座る。鏡を見れば、そこに映る自分の顔に大きなショックを受けた。
普段は吊り気味の瞳はいやらしく垂れ下がり、普段はキリッと口角の上がった唇は、真っ赤な頬を押し上げながらニタッと開いている。
(なんて酷い……)
妻は涎を拭うと、乱れた髪と顔を整えながら、戒めの言葉を唱える。
「……イヴちゃんの顔、気持ち悪い」
それは幼い日、お気に入りの人形を愛でていた時に、友達から言われた言葉だった。玩具の手鏡を覗いてショックを受けた彼女は、それ以来、意識して感情を表に出さないよう気を付けてきたのだ。特に好きなものを愛でる時は──
『美人だが愛想がない』
『肌も白すぎるし、血が通ってないのでは?』
『氷みたいに冷たい令嬢だ』
いつしかそんな風に言われるようになり、恋人も婚約者も出来なかったが、特に気にしなかった。むしろ嬉しかった。
何故なら、ずっと憧れていた『氷の侯爵様』とお揃いだったから。
「気持ち悪い……気持ち悪くない……よしっ!」
妻はパンと頬を叩くと、机に座り、引き締まった顔で東国の歴史書を開いた。
その夜、夫が風呂から上がると、妻は姿見の前でドレスを試着していた。
深みのあるボルドー色は、彼女の雪のような肌を引き立て、デザインも若い侯爵夫人に相応しく、上品かつ華やかだ。
ただ……
後ろから抱き締めれば、コルセットもパニエもない、柔らかな腰の感触が伝わる。妻はピクリと肌を震わせながら、鏡越しに夫を見つめた。
「……茶会で着るドレスか?」
「はい。今日仕上がりまして。アクセサリーはどれを合わせようか迷っておりました」
「少し肌を露出しすぎではないか?」
「東国の伝統を取り入れたデザインなのです。今回はお許しください。あと……お気を付けください」
そう注意する側から、夫は白い項に唇を落とし始める。
「まだひと月もあるのだから問題ないだろう」
「正確には三週間と一日です。茶会の一週間……んっ……いえ、念の為、十日前からはお気を付けくださいませ」
「……努力しよう」
夫はそう言うと、妻を横抱きにし、内扉から寝室へと向かう。緩く留めていたピンが外れ、艶やかな黒髪がベッドへ広がった。
(今夜も、妻の好きな『氷の侯爵』でいられるだろうか。この時だけは、妻の愛らしい笑顔を見られると思うと……もう……)
夫は出来るだけ顔を引き締め、妻の苺のような唇へ向かった。
◇
『私は貴方様をお慕いしております。初めて参加した夜会で、酔った殿方に絡まれているところを助けていただいてから、ずっと。ですから……どうか、私と結婚していただけませんでしょうか? 女性からこんなことを申し上げるのははしたないと、重々承知しております。ですが……もう胸が切なくて、苦しくて、どうにもならないのです』
『……私でよろしいのですか? 貴女のようにお若くて……可憐なご令嬢が。私は “ 氷の侯爵 ” などと呼ばれ、婚期を逃している男なのですよ?』
『はい。どんなにお美しいご令嬢を見ても、眉をピクリとも動かさないそのクールなお姿と、それでも一挙一動から滲み出てしまう温かなお心をお慕いしているのです。それに私も、“ 氷の侯爵令嬢 ” ですから。お揃い……いえ、似合いの夫婦になれそうではありませんか?』
◇
甘くしなやかな妻を抱き締めながら、夫は思う。
優しく、慎ましく、有能な君が好きだ。
だけど、おやつを食べる自分を見て、頬を微かに緩める君はもっと好きだ。
それよりもっともっと好きなのは、こうして自分の腕の中でふにゃりと笑う、ありのままの君なのだと。
いつ、どんな形でそれを伝えたらいいだろう。
あっ! 次の結婚記念日に……氷の侯爵らしくクールに……と考える夫は、妻と同じく、ふにゃりと破顔していた。
ありがとうございました。




