狩猟祭
狩猟祭の開始を告げる号砲が、乾いた音を響かせて空気を震わせた。
森へ続く道には旗が整然と並び、男たちはそれを掲げながら、勢いよく馬を駆っていく。
観覧席では鮮やかなドレスがきらめき、令嬢たちがその勇ましい姿を目で追っていた。
「ギルフォード様はいらしていないの?」
「風邪をひいていらっしゃるようですわよ」
「今年はドゥーカス大公爵家も不参加ですから、カイン様もいらっしゃらないわ」
「ですが!アルヴェイン公爵はいらっしゃいますわ!」
華やかな人波から、さらにいっそう大きな歓声が上がり、目を向けると、遠くに立派な馬の手綱を引くノアの姿が見えた。
彼の周りには人だかりができていて、令嬢たちの手にはハンカチが握られている。
「アルヴェイン公爵様!こちらをお受け取りくださいませ」
「わたくしの祈りの印でございます。どうか!」
令嬢達の言葉に、ノアは柔らかい笑みを浮かべながらも、揺るぎない瞳で静かに首を振る。
そこには断ることへの傲慢さも無いが、迷いの色もない。
「申し訳ありません。すでに大切な人より受け取っておりますので」
そう言ってノアは、懐から一枚の白いハンカチを取り出した。
私が刺繍を施した、あのハンカチだ。
それを誇りそのもののように掲げた瞬間、周囲がざわめきに包まれた。
「まぁ……!公爵様が誰かのハンカチを!」
「どなたが贈られたのかしら……?」
「想い人がいらっしゃるなんて聞いてないわ!」
令嬢達の表情が一瞬だけ硬直する。
しかしノアは丁寧な一礼を返すと、そのまま馬に跨って走っていった。
「断る姿すらも素敵ですわね!」
「アルヴェイン公爵に思われる方が羨ましいわ」
私は天幕の陰から、それを息をひそめて見つめていた。
白いハンカチが風に翻った瞬間、胸の奥で心臓が跳ね上がり、喜びに似た熱が、困るほど強く波打った。
(……ノアの馬鹿。あんなふうに人前で……)
心の中で呟くその“馬鹿”の裏に、抑えきれない幸せが隠れているのを、私自身が誰より理解していた。
――――――――――――
男性陣が狩場へと向かった後、待合の天幕には、ひそひそとした声が満ち始めた。
「……聞きました?
ハルシオン殿下にハンカチを渡すリュシエル姫を邪魔されたとか……」
「確か、リュシエル姫は婚約者候補なのでしょう?お可哀想……」
「身分を考えて欲しいですわ」
誰とは名指ししない。
けれど、向けてくる視線はあまりに露骨だった。
悪意だけが、香水よりも濃く漂う。
(私は……何もしていないのに……また悪者扱い)
どこか、このような扱いに慣れてきた自分がいることに驚いた。
この感じは、どこかで経験した――そう、昼餐会の時の空気だ。
また、誰かが裏で糸を引いているのかもしれない。
それはリュシエル本人なのか、あるいはジェシカの側にいた者たちか……。
いずれにせよ、真相を知らないもの達の間で語られる話は、殆ど原型をとどめていない。
その時、私は無意識に胸元へ手を伸ばしていた。
指輪に触れるだけで、心に漂う不安の靄が薄れていくような気がする。
いつの間にか、この指輪は私にとってはなくてはならない心の安定剤になっていた。
「セラ様」
ふと名前を呼ばれて振り返ると、そこには栗毛に青い瞳をした少女が立っていた。
どこか懐かしいようなほっとする容姿に、気持ちがほぐれる。
「初めまして。
エルダールより参りましたセラ=ヴァレンティアと申します」
立ち上がって挨拶すると、少女はふわっとした優しい笑みを浮かべた。
「急にお声掛けして申し訳ありません。
私はステラ・アルヴェインと申します。
先日は兄がご迷惑をおかけしたようで申し訳ございません」
道理で……。
ステラ・アルヴェイン、つまりノアの妹だ。
よく見ると、目元がノアとよく似ている。
昔、ノアからよく妹君の話を聞いた。
ノアが私を妹のように扱うことが、兄の居ない私にとって、くすぐったかったことを思い出す。
「……いえ、アルヴェイン公爵様に来ていただけたおかげで、冤罪を晴らすことができましたから」
私の言葉にステラは何かを思い浮かべるようにふっと微笑んだ。
「それでも、あの指輪は兄にとってとても大切なものですから。
セラ様には感謝していると思います」
そう言われ、私は小さく首を振る。
「……いえ。たまたま、です」
これ以上踏み込まれるのが怖くて、曖昧に濁した。
ステラはそんな私の様子を気に留めることもなく、少し視線を遠くへ向けた。
「兄は……本当に不器用なんです」
柔らかく、どこか懐かしむような声。
「この五年間、ずっと、皇女様を想い続けていますから」
"皇女"の言葉に、胸がどくりと鳴った。
「こんなことを言えば、不敬罪に当たるかもしれませんが……。
帝国の誰もが皇女様と皇子様の生還を難しく思っています。
それでも、兄は今でも諦めないで信じているのです……」
彼女の言葉が、胸に突き刺さる。
「兄にとっては、きっと皇女様は“世界そのもの”なのでしょう」
私は、作り笑みを浮かべることすらできなかった。
「アルヴェイン家の方々はあの事件の後にひどい仕打ちを受けたと聞きました……。
その……恨んではいらっしゃらないのですか?」
聞かない方がいい。
分かっているのに、口が勝手に動いてしまう。
「皇族の皆様を……ですか?」
ステラはそう言うと、何か思い出すように少し照れたように笑う。
「幼い頃は焼きもちを焼きました!
大好きな兄と父との時間はほとんどありませんでしたから。
……でも、あの方達に仕える父と兄が誇りでしたから。
恨むなんて、とんでもありませんわ」
その後、少し言い淀み、それから意を決したように続ける。
「それに私も信じたいんです……」
彼女のお願いするような声音に私は無意識に息を詰めていた。
「皇女様と皇子様が今もどこかで生きていてくださることを……」
その優しさが、残酷だった。
(……そんなの)
私は、あなたの目の前にいるのに。
言えない。
名乗れない。
感謝の気持ちも伝えられない。
「……私も一緒に願わせてください」
それしか、言えなかった。
その言葉は嘘でもない。
私も心のどこかであの日はぐれた弟が生きていたらとずっと願っているからだ。
ステラはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。
セラ様は、とてもお優しい方ですね」
優しいのはアルヴェイン家の人々の方だ。
(ノアも、ノアのお父様も、ステラ嬢も……優しすぎる……)
けれど、その言葉を否定することもできず、私はただ微笑み返した。




