ハンカチ
side ノア
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皇都近郊の森には、各家の紋章を掲げた天幕が立ち並び、貴族たちは浮き立つように出立の支度をしていた。
祝祭の喧騒と、乾いた草を踏みしめる音。
空気は軽やかで、どこか浮ついている。
――だが、ノアの胸の内だけは違った。
冷たい緊張が、静かに、しかし確かに広がっている。
帝国の盾であり、剣。
狩猟祭において、アルヴェイン公爵家に求められるのは“圧倒的武力”だった。
狩猟に必要なのは、単なる腕前ではない。
戦略、連携、統率――すなわち、戦場で生き残るための力。
戦争は、この二百年起きていない。
今となっては、この軍事的催事も貴族たちにとっては華やかな祭りの一つに過ぎないのだろう。
だが、火種はいつ、どこで撒かれるか分からない。
その時、この国と民、皇家の者たちを守れるのか。
アルヴェインの名を背負う者に、この祭りをただ楽しむ資格などなかった。
――とはいえ、興を削ぐわけにもいかない。
狩場に入るまでは、いつもの柔らかな仮面を被るしかない。
「今年も、皇后陛下に捧げられるおつもりですか?」
声をかけてきたのは、ブライアント子爵。
父の代からアルヴェイン公爵家を支える側近であり、あの事件の後に伯爵位を失った男だ。
「そうですね」
「もう少し、同年代の令嬢に目を向けていただかないと。
お世継ぎのこともありますし……」
「その時が来れば、きちんと考えますよ」
力まず、穏やかに微笑む。
それが今のノアにできる精一杯の応対だった。
「今、煩わしく思われたでしょう。
ですが! たとえ睨まれても、言わせてもらいますよ!」
父が存命だった頃は、もっと知的で静かな印象の人だった。
今ではすっかり、口うるさい親戚のような存在だ。
「分かっています」
子爵に悪意はない。
父の分まで、公爵家を支えようとしてくれている――それだけだ。
その時、天幕の外から間の抜けた声が響いた。
「ノーアーさーまー!」
「……キース」
入ってきたキースは、見るからに楽しそうな顔をしている。
また何か、余計なことを思いついたのだろう。
「私は席を外しますね」
子爵はそう言い残し、外へ出ていった。
「で、何をしに来たんですか?」
視線を向けずに尋ねると、キースはあからさまにむくれる。
「あ! ノア様、冷たいですよ!」
「冷たくないだろう」
それでもこちらを見ようとしないノアに、キースは鼻を鳴らし、懐から一枚のハンカチを取り出した。
「このハンカチが、目に入らないんですか~」
「……受け取らないのは、知っているでしょう」
ノアは十歳で初めて狩猟祭に参加して以来、数え切れないほどのハンカチを捧げられてきた。
だが、一度として受け取ったことはない。
それは誰に命じられたわけでもない、自分自身のけじめだった。
アルヴェイン公爵家が、この祭りを恋の舞台にしてはならない――そう思っていた。
「え~、いいんですか?」
あまりに執拗な様子に、ノアはようやくキースへ視線を向ける。
キースは、開いたハンカチを大切そうに差し出していた。
そこに刺繍されていたのは、白い花と二羽の小鳥。
――白い花、ではない。
ガーデニアだ。
「……エリシア様?」
喉が、わずかに鳴った。
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
「はい。ノア様にお渡ししてほしいと」
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
これまで積み上げてきた理屈も、決意も、このハンカチの前では意味を失った。
ノアは迷うことなく歩み寄り、そのハンカチを受け取る。
「怪我をしないで欲しいと仰っていました」
そう語る彼女の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。
気づけば、強張っていた口元が緩んでいた。
「……ありがとうございます」
その言葉はキースに向けたもののはずなのに、
どこか、エリシア本人へ告げているようだった。
「では、エリシア様の警護に戻ります」
キースはそう言って、天幕を後にした。
残されたのは、手のひらにある白いハンカチ。
他の誰が見ても、ただの布切れだろう。
けれど、ノアにとっては――かけがえのない宝だった。
(覚えていてくださった……)
ガーデニアの白い花。
初めて彼女と出会った日、二人で眺めた花。
それだけで、胸の奥が静かに温まっていく。
ノアは大切そうにハンカチを畳み、胸元へとしまった。
(たとえ、エリシア様の好意が、自分のそれとは違うものだとしても。
たとえ、彼女の隣に立つのが、別の男だったとしても……)
それでも。
――彼女に、獲物を捧げたい。
帝国の公爵として。
彼女の本当の立場を隠す者として。
許されない願いだと、分かっている。
それでも、この胸に宿った想いを、消すことはできなかった。




