掛違えたボタン
翌朝、いつも身支度を済ませた頃に部屋を訪ねてくるハルが、来なかった。
サーシャは様子を聞きに行こうとしてくれたけれど、私はそれを止めた。
彼が距離を取ろうとしているのなら、無理に追うべきじゃない。
彼の方から戻ってきてくれるのを、待とうと思った。
だけど――その判断が、間違いだったのかもしれない。
その日から数日間、ハルが私の部屋を訪ねることはなかった。
もともとこの数日は、お互いに別行動の予定が多かった。
それでも、今までなら、どんなに忙しくても何かしら理由をつけて顔を見せてくれていたはずだ。
これくらい会わなかったことは、これまでもある。
ハルは王太子なのだから、やるべきことが山ほどあるのは分かっている。
仕方のないことだと、頭では理解している。
それでも――彼のことを考えるたび、胸の奥に何かが刺さっているような痛みが消えなかった。
その日は、珍しくお互いに予定の入っていない日だった。
私はハルの部屋を訪ねてみたが、彼はすでに外出していた。
今まで暗黙の了解のように、予定のない日は二人で過ごしてきた。
だから今日は会えるかもしれない、と淡い期待を抱いていた分、胸の奥がずしりと沈む。
(……何も予定がない日って、どう過ごしていたんだっけ)
部屋に戻って椅子に腰を下ろすと、サーシャが不思議そうに声をかけてきた。
「帝国にいらしてから、ずっとお忙しかったですよね。迎賓館の中、まだゆっくりご覧になっていないのでは?」
「……確かに」
「庭園も素敵ですし、パティスリーもとっても評判なんですよ! 一度行ってみたかったんです」
「じゃあ……せっかくだし、行ってみましょうか」
そう答えると、サーシャは待っていましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「はい!!!」
迎賓館の一階に、そのパティスリーはあった。
建国祭に合わせて、帝都の有名な洋菓子店が出店しているらしい。
午前中ということもあり、店内にはまだ空席が目立つ。
王侯貴族用には二階やテラスにVIP席が用意されているようだが、私たちは一般席へ案内された。
席に向かおうとした、その時だった。
庭園に面したテラス席に、見覚えのある白銀の髪が目に入った。
彼の向かいには、黒髪の可憐な少女が座り、愛らしい笑顔を浮かべていた。
(……あ、そっか)
私は、気づかれないようにそっと視線を逸らした。
彼の方を、もう見てはいけない気がしたから。
その瞬間、ソフィアの言葉が胸に蘇る。
――『恋は、タイミングですわ』
その通りなのかもしれない。
自意識過剰かもしれないけれど、少し前まで、ハルの気持ちは確かに私に向いていたと思う。
けれど今、その思いは、もう私のもとにはない。
当然だ。
あんな酷いことを言ってしまった。
彼の気持ちに気づきながら、曖昧な態度を取り続けてきた。
今だって、自分の気持ちがはっきりしているわけじゃない。
傷つく資格なんて、きっとない。
それでも――
出会った頃より、彼がずっと遠くにいるように感じてしまった。
私の視線の先に気づいたのか、サーシャは悲しそうな表情で、そっと言った。
「セラ様……テイクアウトにして、お部屋でいただきましょう」
本当は、異国の素敵なパティスリーを楽しみたかったはずなのに。
気を遣わせてしまったことが、胸に痛かった。
それでも、サーシャは何も言わず、私の隣に立っていてくれた。
それだけで、少しだけ息ができた。
部屋に戻って、サーシャと一緒にケーキとお茶を準備をした。果実のような香気が部屋に漂う。
サーシャが注がれた鮮やかな色のお茶に目を輝かせた。
「わぁ!素敵な香り!それに綺麗な色ですね!何のお茶ですか?」
「ダージリンです。紅茶のシャンパンと呼ばれているんですよ」
彼女の明るい笑みと紅茶の香りに、自然と私の心も和やかになる。
「紅茶のシャンパン!確かにグラスに入れても華やかですね!」
「特にセカンドフラッシュは、収穫時期が限られているので希少性が高いですが、芳醇な香りがしますし、コクがあってケーキにピッタリなんですよ」
「確か王宮で春に頂いたのはもっと薄い色でしたよね!収穫時期で香りと味が変わるのですね!」
私の話をサーシャはすぐにメモに記した。
サーシャは侍女と言っても、神殿で身の回りの世話をしていてくれたに過ぎない。
私が心を許しているから、ハルが無理を言ってエルダールで王宮付きの侍女にしてくれたが、王侯貴族に付くにはまだまだ知識と経験が足りない。
それでも、彼女は私に仕える為に一生懸命学んでくれていた。
「セラ様って、そこら辺の貴族令嬢よりずーっと貴族らしいですよね!」
「え?」
サーシャの言葉に驚く。
確かに平民や下級貴族はそこまで紅茶を嗜まない。
曾祖母が紅茶好きで、よく色んなお茶を飲み比べていたから自然と知識がついたのだが、うっかり話しすぎてしまったようだ。
「お茶を飲む姿も、同じ女性でも見惚れてしまうほど綺麗ですもの!
今日、パティスリーのVIP席にいた方達よりずっと美しいです」
皇族として、幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
特に帝国の象徴として振る舞えるよう、立ち振る舞いには厳しく指導されたのだから、当然と言えば当然だけど、純粋に嬉しい褒め言葉だ。
だけど、平民出身のセラとしては違和感になってしまう。なんとか、神殿での祈りの儀式で身についたことにしているけれど、そろそろガタが出るだろう。
私は、サーシャの言葉を遮るように話題を変えた。
「お勉強もいいですが、早く頂きましょう」
私の言葉にサーシャはこぼれるような笑みを浮かべた。




