したたかな姫
秋晴れの空の下、皇都郊外の狩り場には色とりどりの天幕が張り巡らされ、風に揺れる旗には帝国と参加諸国の紋章が並んでいた。
皇都から数時間の道のりを経てたどり着いた皇家の所領、その中心に広がる狩猟場は、かつての軍事演習場でもある。
私は、野営地の一角に用意された小さな休憩用の天幕の中で身支度を整えていた。
サーシャが髪を整えてくれている間、鏡越しに外の光を見つめる。
そっと、膝の上の布を手に取った。白いガーデニアの花と二羽の小鳥の刺繍が施されている。
昨夜までに一針一針、丁寧に縫った。
ノアの無事を祈るように――。
たかが狩猟祭。今となれば貴族のお祭り。
だけど、他の誰でもない帝国の盾であり剣としての役割を持つアルヴェイン公爵家の者にかかる重圧は大きなものだろう。
ノアならいつもの余裕のある笑みを浮かべて居そうだけど、それでも怪我が無いよう祈ることは許されるだろう。
そんな時、天幕の外から、キースの元気な声が聞こえる。
「セラ様ー!そろそろ時間ですよ!」
私は緊張を隠すように微笑みながら幕を少し開いた。
「キース、お願いがあるの。……公爵様に、これを渡して貰えませんか?」
差し出されたハンカチを見たキースは、少し目を丸くして、それからにやりと笑った。
「これ、もしかして例のやつですか?」
「ち、違うの。ただ……この前のお礼がしたくて」
頬を染めながら言い訳する私に、キースは愉快そうに肩をすくめる。
「了解です。しっかり届けておきます!」
彼はくるりと踵を返し、軽やかに走っていった。
去っていく背を見送りながら、胸の奥に微かな鼓動を感じていた。
――無事に終わりますように。
軽く目を閉じると、祈るように小さく息を吐いた。
――――――――――
暫くして、私は貴婦人たちの待合となる天幕の中にいた。
森の中だとは思えないほど、完璧な装飾に、温かな紅茶の湯気が静かに立ち上る。
だが、ここに流れる空気は穏やかとは言い難かった。
椅子に腰掛けた令嬢たちは談笑しているようで、その実、互いの一挙一動を探り合っている。
その視線のいくつかが、時折、私に向けられているのを感じる。
理由は恐らく、先日のティーパーティーでの出来事のせいだろう。
社交界で幅を利かせていたドゥーカス大公爵家の令嬢を追い出した異国の平民。誰が私に近付こうとするだろうか……。
私は小さいため息をついて、隠れるように端の方に移動した。
「……セラ様」
柔らかな声に呼ばれて、顔を上げる。
そこに立っていたのは、リュシエルだった。
彼女は淡いピンク色のドレスに身を包み、今日もどこか心細そうな表情を浮かべている。
いつもの守ってあげたくなるような、儚げな表情だ。
「少し……お話しても、よろしいですか?」
私は立ち上がり、小さくうなずいた。
「もちろんです」
彼女は周囲を気にするように一度だけ視線を巡らし、それから、胸元で指を組んだ。
「実は……狩りに出る前に、ハルシオン殿下にハンカチをお渡ししたいのです」
そう言って、刺繍の施された白い布を、そっと見せる。
「ですが、人目が多くて……
その……とても緊張してしまって……」
彼女は恥じらうように目を伏せた。
「それで……セラ様に、お手伝いをお願いできたらと……」
狩猟祭で貴婦人が恋人や婚約者、家族に、無事を祈って刺繍を入れたハンカチを手渡す。
そして、男性たちは取ってきた獲物を想い人に捧げる。恋人たちにとっては、狩猟祭のメインイベントと言ってもおかしくない。
そんな場で、私が二人の間を繋ぐ……。
別に嫌なわけではないが、気乗りすることでもない。
だけど、私自身もキースに手伝ってもらったのだ。
それなのに自分は断るのはよくない気がした。
「……分かりました」
「ありがとうございます、セラ様……」
彼女は安堵したように微笑むと、続けて、ほんの少し言い淀んだ。
「それと……もう一つだけ」
視線が、私の胸元に落ちる。
「もし……殿下が、セラ様に獲物を捧げようとされたら……
どうか、受け取らないでいただけませんか」
心臓が、わずかに強く脈打った。
「誤解を生んでしまうと……困りますから」
――誤解。
その言葉が、胸に静かに刺さる。
今の状況で、ハルが私に獲物を捧げてくれるとは思わない。だけど、もし捧げてくれるなら……。それを断ることは私には出来ない。
だって、私にとっては姫君と言えども、リュシエルよりハルの方が大切な存在で、彼の気持ちを無下にしてまで彼女を応援する義理が私にはない。
例えそれが外交上、良くない選択だとしても譲れなかった。
「彼の善意を拒否することは、私にはできません」
そう告げた瞬間、リュシエルの微笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
それは、誰も気づかないほどの、小さな揺らぎだったが、目の前にいる私には確かに見えた。
「ですが……!セラ様は殿下のことがお好きでないのでしょう?」
「……」
その質問に、私は即答出来なかった。まだ自分の気持ちが分からない。
だけど、だからって……ハルと私の関係を誰か別の第三者に決められたくない。
「殿下のなさることと、私の気持ちは関係ありません」
私の答えに彼女は伏せていたまつ毛をゆっくりと上げる。
そこに宿った光は、さっきまでの弱々しく可憐なものではなかった。
「……そう、ですか」
喉の奥で転がるその声は、わずかに温度を変えている。
柔らかさは装ったままだが、芯は別の色をしていた。
「セラ様は……殿下の“特別”になりたいわけでは、ありませんよね?」
言葉はあくまで穏やか。
それなのに、そっと差し出された微笑みは、隠された刃のように鋭い。
まるで、私の返答を試すように。
「違うと仰っていただければ、安心できますの」
一歩――彼女が近づく。
天幕の薄明かりの下、光の角度で、その幼げな顔にほんの一瞬だけ影が落ちた。
「だって……困りますもの。
殿下は私の婚約者になるのですから」
それは、まるで“当然の権利”を言うような口ぶりだった。
(やっぱり……この人……)
昼餐会で彼女が見せた、あの曖昧な弱さ。
平民の私に命令でなく協力を仰ぐ慎ましさ。
すべて完璧な仮面だったのだと、ようやく理解する。
リュシエルは、少し首をかしげた。
可憐で、優しくて、守ってあげたくなる姫君の仕草――
にもかかわらず、その瞳の奥には、はっきりとした悪意が宿っていた。
まるで“あなたには断れないでしょう?”と語るような。
「殿下のお心は……私に向けられているべきですもの」
言葉の甘さとは裏腹に、芯は冷たく、硬い。
「私たちの、未来のために」
私はゆっくりと息を吸った。
心臓を握られるような緊張と、反発が胸を満たす。
「リュシエル姫。
殿下の選択は、殿下ご自身のものです」
できる限り、丁寧に。
しかし、曖昧さではなく、事実として告げた。
リュシエルの笑みが、ほんのわずかだけ、深くなった。
それは――微笑みの形をした挑戦だった。
「……そう、ですわね。
でも、貴方に選ばれる権利はあるのかしら」
その言い方は、まるで私に向けた宣言のようだった。だけれど、その言葉の直後に彼女は一歩下がり、ふっと柔らかい微笑みを見せる。
「では、私はお先に失礼しますわ」
立ち去る彼女からさっきの気配は、嘘のように消えていた。




