トラウマ
バルコニーへと続く回廊は、夜会場の喧騒から切り離されたように静かだった。
冷たい夜気が、火照った頬に心地よい。
(少し、落ち着こう)
そう思って足を進めた、その時だった。
「――あっ」
衝撃と共に、冷たい感触が胸元を打った。
「きゃっ、ごめんなさい!」
目を落とすと、淡い色の布地に、白ワインがはっきりとした染みを作っていた。
「大丈夫ですか? 本当に、私ったら……」
慌てた様子で謝る令嬢は見覚えのある顔だったが、その時の私は、そんなことに気づく余裕もなかった。
「いえ……こちらこそ、前を見ていなくて」
そう答えながらも、視線はどうしても汚れたドレスに落ちる。
これでは、夜会には戻れない。
「まあ……これは困りましたわね」
彼女は一瞬、私の胸元を見つめ――
そして、ぱっと笑みを浮かべた。
「よろしければ、私のドレスをお貸ししますわ。
ちょうど控え室に予備を置いていますの」
「……え?」
「そのままでは、聖女様の名に傷がついてしまいますもの。
少しの間だけでも、お着替えなさっては?」
あまりに助かる申し出に、断る理由が見当たらなかった。
「ありがとうございます……」
小さく頭を下げた、その時、
「俺もご一緒しますよ!」
背後から、キースの声がした。
振り返ると、いつの間にか彼が一定の距離を保って立っていた。
けれど、令嬢は困ったように眉を顰めた。
「まあ……申し訳ありません。
その控え室、女性専用でして、男性の立ち入りは規則で禁じられているのです」
これ以上、キースが抵抗すれば、彼にあらぬ噂を立てるかもしれない……それはノアにも良くないだろう。
それに、護衛とはいえ、着替えの場にまでキースに来られるのは少し恥ずかしい。
「すぐ戻りますから」
私がそう言うと、キースは一瞬だけ迷うような沈黙を置いた。
「……何かあったら叫んでくださいね?」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
控え室は、夜会場から少し離れた場所にあった。
廊下は人の気配が薄く、灯りも疎らだった。
絨毯を踏む音だけが、やけに大きく響く。
「こちらですわ」
案内されたのは、高位貴族用に用意された特別な控え室だった。
個室の扉が開き、私は中へ足を踏み入れる。
――その瞬間。
背後で、扉が閉まった。
重い音と共に鍵が掛かる、乾いた金属音。
「……え?」
「貴女が悪いのですよ!
これ以上、ジェシカ様の邪魔をしないでください!」
先ほどまでの丁寧な口調が嘘のように、苛立った品のない口調。
その言葉を最後に、足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
(……閉じ込められた?)
理解した途端、背筋が冷たくなる。
あの令嬢の笑顔が、遅れて脳裏に浮かんだ。
その時、ようやく思い出した。
令嬢がジェシカのそばにいた取り巻きの一人だったということを。
(……罠だったんだ)
そんな風に考えていたその時、部屋の灯りが消えた。
闇。
視界が、一瞬で奪われた。
途端に暗闇が記憶を引きずり出し、不安に襲われる。
違う。
ここは神殿じゃない。
分かっている。
それでも一瞬にあの頃に引き戻された。
祈りを強要された夜。
逃げ場のない暗闇。
誰も助けてくれなかった、あの時間。
そして、神罰を受けた牢。
途端に胸が、締め付けられ、心臓の音が早くなった。
神殿での地獄の日々は確かに終わった。
それなのに、ふとした瞬間にあのどうしようもない孤独と恐怖がフラッシュバックすることがあるのだ。
どうしようもなく手足が震え、私は壁に手をついた。
冷や汗が、背中を伝う。
違う。大丈夫。ここは神殿じゃない。
あの悪夢はもう終わったのだ。
分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
「セラ様!大丈夫ですか?」
明るい声。
闇の向こうから、確かな人の気配がした。
「……キース?」
声が、震える。
「ご無事ですか?」
鍵を探す金属音。
数秒が、ひどく長く感じられる。
「申し訳ありません。
鍵を手に入れるのに、少し時間がかかってしまいました」
次の瞬間、扉が開き、光が流れ込んだ。
その光を見た途端、身体から力が抜けた。
床に座り込んだ私をキースの腕が支える。
「もう大丈夫です!」
その言葉に、ようやく――呼吸が戻った。
私の様子を見たキースは、静かに眉をひそめた。
「今夜はもう帰りましょう!」
情けないけど、うなずくことしかできなかった。
私がキースに連れられて別の控え室へと移動すると、怒気を含んだ声とともに、ハルが駆け込んで来た。
汚れたドレスと青ざめた私の顔を一目見て、彼の表情が凍りつく。
「……誰がやった」
低く、抑えた声。
けれど、その奥に滲む怒りは隠しきれていなかった。
私は、答えられなかった。
代わりにキースが事の一部始終を説明する。
キースの説明を聞く間、ハルは一言も口を挟まなかった。
ただ、拳を握り締め、微動だにせずに立っている。
最後まで聞き終えたあと、彼は深く息を吐いた。
「……キース、下がれ」
「しかし――」
「何かあれば呼ぶ」
短く、それだけ。
キースは一礼すると、静かに控え室を出て行った。
扉が閉まる音がして、室内には私とハルだけが残る。
沈黙が、重く落ちた。
ハルは私の前に膝をつき、視線を合わせる高さまで身を落とす。
「……いつからだ」
低い声だった。
責める響きはない。
「……え?」
「閉じ込められた時の反応……普通じゃないだろ」
一瞬、言葉に詰まる。
あの場面を見られていたわけではない。
それでも、ハルは“異常”だと気づいたのだ。
「……神殿を出てから」
ようやく、そう答える。
「特に決まったきっかけは無いの。
夜、目を覚ました時とか……地下に降りた時とか」
指先が、無意識に膝の上で絡まる。
「最近は……なくなって来ていたから大丈夫だと……」
言いながら、自分でも笑ってしまいそうになる。
何が“大丈夫”なのだろう。
ハルは黙ったまま、私の言葉を最後まで聞いていた。
「……なぜ言わなかった」
ぽつりと、独り言のように。
「言えないよ」
すぐに返す。
「ハルはもっと長い間……あそこに居たのに。
私だけが、弱音を吐くのは……ずるい気がして」
神殿では彼の方が辛い思いをしていた。
それなのに、私の方が被害者ぶるのは違う気がしたのだ。
ハルの眉が、わずかに寄る。
「関係ないだろ」
静かだが、強い声。
「お前が苦しんでいることを、
知らないままでいる理由にはならない」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……すまない」
私が謝るより先に、彼がそう言った。
「俺が気づくべきだった」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「違う。ハルのせいじゃ……」
「違わない」
彼は、私の言葉を遮った。
「俺の知らないところで泣くな」
そう言って、ゆっくりと私の手を取る。
力は込めず、けれど確かにそこにいると分かる温度。
「何かあったらすぐに呼べ。
声が出なくてもいい。
合図でも、視線でも、何でもいい」
その真剣さに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
――ああ、この人は。
私をいつも守ろうとしてくれている。
「……ありがとう」
そう言うと、ハルはわずかに目を細めた。
「礼を言われることじゃない」
そして、ほんの少しだけ声音を落とす。
「怖かったな」
その一言で、張り詰めていたものが、静かにほどけた。
彼に感情を認めてもらえることで、
私は存在を肯定された気がした。
――私は、ここにいていいのだと。




