小さな火花
柔らかな秋の陽光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
昨夜の出来事が、まだどこか夢の続きのような気がする。
ノアと再び言葉を交わした。
その事実が胸の奥でゆっくりと疼き、呼吸のリズムを乱す。
鏡を見ると、目元がうっすら赤かった。慌ててそっと指で撫でる。
泣いた跡なんて、誰にも見られたくなかった。
とくに、これから会う人には。
軽いノックのあと、扉が開く。
姿を見せたのは、ハルだった。
「……支度は済んだか」
「うん」
いつもの無愛想な表情。
けれど、視線の奥にはかすかな揺らぎ――私の様子を気にしている気配があった。
ハルは腕を組んで椅子に腰を下ろす。
無造作な仕草なのに、その一つひとつが洗練されて見えるから不思議だ。
帝国の令嬢たちが彼に見惚れる理由がよく分かる。
「昨日は疲れただろう」
「……ありがとう。ハルがいてくれたおかげで、心強かった」
素直に言うと、ハルはわずかに眉を上げ、口元をほんの少しだけ緩めた。
「珍しいな。素直に礼を言うなんて」
「いつも言ってるでしょ!」
軽い冗談を交わせるだけで、胸の重さがほんの少し和らぐ。
けれど、ハルの瞳は笑っていなかった。
真っ直ぐに、痛いほど真剣に、私の奥を覗き込んでくる。
「……何かあったか?」
唐突な問いに呼吸が止まった。
だけど、首を振って誤魔化す。
「何もないよ」
ハルはじっと見つめたまま目を細めたが、それ以上追究しなかった。
「……そうか。ならいい」
しかし沈黙にはどこか張りつめたものがあり、秋の爽やかな風が部屋に入っても、それを吹き払うことはできなかった。
「……午後から市街の視察がある。お前も来い」
「え?」
「見聞が広がる。それに……外の空気を吸えば少しは楽になる」
言葉こそぶっきらぼうだが、まるで“逃げ場所を作ってくれている”ようだった。
「うん。ありがとう」
その時、再びノックの音がした。
続いて、サーシャの少し弾んだ声が響く。
「セラ様、アルヴェイン公爵様がお見えです」
「っへ!?」
まさかこんなにすぐに来てくれると思っていなかったので思わず声が出た。
「お、お通ししてください!」
扉が開き、ノアが入ってくる。
慌てる私とは正反対に、彼は柔らかな微笑みを浮かべながら、静かに一礼した。
「おはようございます。
帝国での暮らしには慣れられましたか?」
「おはようございます。ええ、少しずつですが…」
声がわずかに震えてしまったことに、彼が気付かないで欲しいと思った。
ノアは静かにうなずき、表情を引き締めた。
「早速ですが、今日は貴方の護衛を紹介しに来ました」
「……藪から棒だな」
ノアの言葉に、ハルが低く呟いた。
「帝国に滞在される以上、人目に触れることが多くなります。念のためです」
「彼女の護衛は王国側で手配している。新たに必要なのか?」
ハルの声音には、はっきりとした警戒がにじむ。
だがノアは礼儀正しく微笑むだけだった。
「王太子殿下。貴方がどれほど彼女を大切にしておられるか、私も十分に承知しています」
彼の言葉は柔らかい。
なのに逃げ道を与えない。
「ですが、公式行事では帝国側の護衛でなければ制限が生じます。
これは私情ではなく、形式上の問題なのです……どうか、ご理解いただきたい」
硬さはない。怒気もない。
その声音は絹のように滑らかで、ただ丁寧で礼儀正しい。
それなのに、一歩も引かない意志があった。
ハルは沈黙のままノアを見つめ……
やがて小さく息を吐いた。
「……分かった」
その声には、拭いきれない刺が混じっていた。
流れる空気の鋭さに、胸が少し痛くなる。
その時、明るい声が響いた。
「どうも~、はじめましてセラ様! ノア様の腹心、キース・ルーベルトです!」
明るい声が部屋の空気を一瞬で変えた。
笑顔に誠実さと軽やかさが同居している、不思議な青年だった。
「……腹心?」
「はい!幼い頃からアルヴェイン公爵家に仕えていますから!
ノア様は面白さに欠けるので、僕が代わりに喋りますよ~!」
「キース」
ノアが低く諫める。
だがその声音には親しみが滲んでいた。
「彼は少々騒がしいですが、腕は確かです」
「ノア様には劣りますがね!!」
その声にノアは小さく咳払いをした。
「護衛、というのは……私のそばにずっと?」
「もちろん強制ではありません。ただ……貴方が安心して過ごせるように、と」
その静かな優しさが、胸を温かくした。
「命に代えても――いや、できれば代えずに守りますね、セラ様!」
キースは明るく胸に手を当てる。
「ふふ……頼もしいです」
私が笑うと、ノアの表情がほんのわずか和らいだ。
「では、何かあればキースにお伝えください」
そう言ってノアは丁寧に礼をして去っていった。
その背中を、ハルは無言のまま見つめていた。




