知らない顔
控室に入った瞬間、ソフィアの張りつめていた表情がわずかに緩んだ。
しばらく沈黙が続き、ようやく彼女は胸元を押さえながらぽつりと漏らす。
「……ごめんなさい。少し、息が苦しくなってしまって」
「ソフィア様、何かあったのですか?」
問いかけると、彼女は躊躇いがちに微笑んだ。その微笑みは、どこか自嘲に近い。
「……実は、言うつもりはなかったのですけれどね。
もともと私、アルヴェイン公爵の婚約者候補だったのですよ」
思ってもいなかった告白に、胸が跳ねた。
「けれど、アルヴェイン家が爵位を剥奪された時、そのお話は白紙に戻りましたわ。
理由はアルヴェイン家が公爵位を失われたこともあります。
……でも一番の理由は、フローレンス家が“皇族に戻る可能性”が浮上したからですの。
ご存知かも知れませんが、代々皇族に仕えるアルヴェイン家は皇族と婚姻関係を結べません」
貴族間の勢力のバランスを乱さない為に姻戚関係を作らぬという、アルヴェイン公爵家と皇族で結ばれた古い掟だ。
気付けば、問いがこぼれていた。
「……ソフィア様は、今でもアルヴェイン公爵を?」
彼女があのように顔色を悪くしたのは、本当はノアを想っているのに他の方との婚姻を迫られることに対してなのかと思ったのだ。
しかし、ソフィアは大きく首を振った。迷いのない仕草だった。
「幼い頃は、お慕いしていましたわ。とても。
けれど――あの方の心には、いつも皇女様がいらっしゃいましたもの」
ピクリ、と心臓が痛む。
けれどソフィアは柔らかく笑って続ける。
「いくら“宿命”でも、夫になる方が別の女性だけを見ているなんて……耐えられませんわ。
それに、彼を想う令嬢は多いでしょう? 嫉妬されるのも面倒ですし!」
冗談めかして言ったが、その奥にあった諦めは深い。
私は胸の奥が、少しだけ軋むのを感じた。
するとハルが壁にもたれながら、低く尋ねた。
「そんな掟があるのなら……ドゥーカス家が皇太子候補に手を挙げている以上、ドゥーカス令嬢とアルヴェイン公爵の婚約は本来あり得ないのでは?」
ソフィアは苦笑した。
「ええ。不思議なのです。
大公爵家が皇位争いに名乗りを上げた以上、皇族になる可能性は高い。
殿下が仰る通り、盟約を破らない限り、ジェシカ嬢とアルヴェイン公爵が婚約を結べるはずがないのですわ」
その言葉は、室内の全員に小さな波紋を落とした。
つまり、ノアはあの掟を破ってまでドゥーカス家の令嬢と添い遂げようとしているのだろうか……。
私はこの話題に耐えきれず、思わず話を逸らした。
「ソフィア様、では……どうして、そんなに顔色が悪く?」
ソフィアは小さく息を吐いた。
「……公爵家の娘ですもの。婚約は家のためと理解しています。
でも……本当は、物語の聖女様と殿下のように自由に恋がしたいのです。図々しいでしょうけれど」
胸がつまる感じがした。
彼女の言う物語の聖女セラの中身はエリシアだ。皇女として自由な恋など許されない。
だが、ソフィアの夢を否定したくはなかった。
「……素敵な夢ですわ、ソフィア様」
そう言うと、ソフィアは涙を我慢するように微笑んだ。
――――――――――
帰りの馬車で、私は流れる皇都の街並みを眺めながらぼんやりと考え事をしていた。
もし、あの事件が起きなければ……
ソフィアとは従姉妹として仲良くしていたのだろうか。
そして、ノアとソフィアは婚姻関係を結んでいたのだろう……。
(ノアに婚約者の話があったなんて知らなかったなぁ)
ジェシカが婚約者だと聞いた時、とても動揺してしまった。だけど、ノアにはずっと前から婚約者候補が居た。それはつまり、ノアが変わってしまったのではなく、私が何も知らなかっただけ。
(私はノアの何を見ていたんだろう……)
そういえば、私は何も知らない。
彼はどんな食べ物が好きなのか。
何が得意で、苦手なことはあるのか。
結局、あの頃の私は自分の事ばかりで、彼のことなんて知ろうともしてなかったのだ。
(あの頃って……今もじゃない)
自分の事ばかりで、ちゃんと情勢も見れていない。
ノアはどうしてドゥーカス家の令嬢を懇意にしているのだろう……。
そんな私の姿をハルはまるで傷付いた小鳥でも見つけたかのように、痛々しい眼差しで見つめていた。




