心の拠り所
迎賓館に用意された部屋へ戻ると、夜の冷気がようやく刺々しさを失い、静けさだけを残していた。
ハルがサーシャに頼んでくれたハーブティーの香りが、室内にほのかに満ちる。
「……ごめんなさい、ハル。せっかくの夜会だったのに」
私がそう言うと、ハルはすぐには答えず、そっとハーブティーを差し出してきた。
「まずは飲め」
短い言葉の中に、落ち着いてから話そうという彼なりの優しさが込められている。その落ち着いた響きに、張り詰めていた胸の奥がふっと揺らぐ。
けれど、ひと口飲んだ途端、堪えていた感情が溢れ出しそうになった。
(……ノアはあの令嬢と……)
目を閉じると、ジェシカがノアの腕に絡ませていた指先が、何度も何度も焼き付いたように浮かぶ。
――もう、帝国には私の居場所なんてないのかもしれない。
気付けば涙が頬を伝っていた。
五年前、あの苦しい毎日を乗り越えられたのは再び帝国に戻る為だった。
いつか、私が本当の居場所に戻れた時、またノアが隣に居てくれると信じていた。
でも、もう彼の中に私は居ない。
(……五年も経ったんだ。忘れられていても、仕方がない……)
ハルは私の涙に驚いた様子もなく、静かに私が話し出すのを待ってくれた。
「私、足手まといで…ごめん」
「別にそういう意図でお前を連れてきたんじゃない」
珍しく、ハルの声に鋭さが混じる。
「それより、侯爵が言っていた“帝国の情勢”を覚えているか?」
覚えている。だけど、今は何も頭に入らない。
私は小さく首を横に振った。
「……まあいい。簡単に言えば――」
ハルは私の涙を拭いながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「帝国は今、皇位争いで完全に割れている。
アルヴェイン家は中立派の要だ。
そんな家が、革新派のドゥーカス家と婚姻を結ぶなんて……常識で考えてもあり得ない。
誰が見ても、明らかだ」
「……じゃあ、あれは……?」
「“何か裏がある”と考える方が自然だろう。
中立派の思惑か、アルヴェイン家の事情かは分からないが……」
その言葉に、心が少しだけ静まった。
でも、二人が家同士の立場を超えた、普通なら認められない禁断の恋に落ちたのかもしれない。
「……でも……」
「社交の場で感情を出せる貴族は、ほとんどいない。優秀な奴ほど特にな……」
ハルはそう言って、私の手を取った。
大きくて温かいその手は、震えている私の指をゆっくり包み込む。
「エリシア。今日お前が泣いた理由は理解してる。
でも――今日見たものだけで、“終わり”だと決めつけるな」
その温度が、胸の奥にじんわり広がる。
気付けば私は、その手を握り返していた。
「……ありがとう、ハル」
「もういいから、今日は早く休め」
穏やかな声。
その声に身を委ねるようにベッドへ横たわると、ハルはしばらく手を離さなかった。
指先を絡めたまま、ただじっと私の呼吸が落ち着くのを待ってくれている。
「寝ろ。もう大丈夫だ」
まるで安心させるように、親指がそっと手の甲を撫でる。
その優しい温度に溶けるように、意識が暗闇へ沈んでいった。




