身を知る雨
翌朝、私たちはベネット侯爵の馬車に続き、帝都を目指した。
予定通りの時刻に帝都の城門が見えたとき、胸の奥がかすかに震えた。
陽の光を受けて輝く白亜の城壁――かつて聞いたことのある聖堂の鐘の音が、遠くで鳴っている。
懐かしいはずなのに、どうしてだろう。
まるで、別の世界を覗き込んでいるような気がした。
馬車の窓から差し込む光は柔らかく、外の街並みは以前よりも整って見える。
ここに、皇太子一家が虐殺された影など少しも残ってはいない。
帝国は見事に立ち直り、以前よりも繁栄しているようにすら思えた。
けれど――その美しさの中に、私は自分の居場所を見つけられなかった。
「懐かしいか?」
隣に座るハルが、穏やかに問いかけてくる。
「……ええ、少し。けれど、なんだか遠い場所みたい」
「そうか。俺は初めて見るが、噂通りの都だな。整いすぎていて、息が詰まりそうだ」
皮肉めいたその言葉に、思わず小さく笑ってしまう。
ハルはそれに気付いたのか、口元をわずかに緩め、再び視線を外へと向けた。
彼の隣にいると、呼吸が少しだけ楽になる。
この旅の途中、どれほど彼の存在に救われてきたか分からない。
馬車は帝都の中央広場を抜け、宿泊先である迎賓館に到着した。
玄関には帝国の使者が待っており、礼儀正しく一礼する。
「ハルシオン・レヴィ=ルフェリア王太子殿下。
ようこそ、セレスティア帝国へ。建国祭を祝し、今宵は前祝の夜会が催されます。ぜひご出席を」
「夜会……」
思わず、その言葉を小さく反すうする。
過去の私を知る者が、その場にいるかもしれない。
それでも、王国の代表として逃げるわけにはいかなかった。
私は“皇女”ではなく――セラ=ヴァレンティアとして、ここにいるのだから。
夜になり、館に灯がともる。
夜会はすでに始まっているようで、窓の外からは音楽と笑い声が微かに届いていた。
ドレスに袖を通す指先が、わずかに震える。
鏡に映るのは、淡い桃色の髪を持つ女性。
昔よりも少し大人びて見えるけれど、その瞳の奥には、まだあの日の少女がいた。
(大丈夫。私は、以前とは違う)
扉がノックされ、ハルの声が響く。
「そろそろ行くぞ」
「……はい」
彼に手を取られ、会場へ向かう階段を下りると、近くにいた使用人がそっとグラスを差し出した。
私たちはそれを受け取り、人混みの中へと足を進める。
きらびやかな光に満ちた大広間。
シャンデリアの輝きが宝石のように散り、貴族たちの笑顔が花のように咲いている。
その中で――
ふと、視線がひとつの場所に吸い寄せられた。
人々の輪の中心に立つ青年。
淡金色の髪は光を浴びるたび柔らかく煌めき、長い睫毛の奥で揺れる瞳は、澄んだ空を思わせる。
その隣には、暁色の髪を揺らす令嬢が寄り添い、完璧な笑みを浮かべていた。
(――まさか……)
「あら、アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」
「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」
周囲の囁きが、耳に突き刺さる。
息が、止まった。
アルヴェイン公爵――ノア。
彼が侯爵の言葉通り、公爵の地位を手にしたのだと、今さらながら実感する。
その顔に宿る誇りも、重責も、すべてが成長の証だった。
……でも、それでも。
彼の隣にいるのは、私ではない。
胸の奥が、静かに、けれど確かに痛んだ。
それは懐かしさとも、嫉妬とも違う、名前を付けられない感情。
逃げ出したいのに、目を逸らすことができなかった。
(分かっていたこと……でしょう)
唇が震え、グラスを持つ指先に力が入る。
それでも視線を外せずにいた、その時――
「セラ?」
不意に、優しい声が耳に届いた。
隣にいたハルが、私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫か?」
穏やかで、それでいて心配を隠せない声音。
私は慌てて、笑みを作った。
「うん。少し酔いが回っただけ……だから、大丈夫」
手にしたグラスは、まだ一滴も減っていない。
ハルはきっと、それに気付いている。
それでも何も言わず、彼はそっと私の手からグラスを取り、空いた手を取った。
「少し、外の空気を吸いに行こう」
その温もりに導かれるように、私は人混みを離れ、バルコニーへと出た。
夜風が頬を撫でる。
秋の冷気が、火照った肌を静かに冷ましていく。
「少し休め」
そう言って、ハルは人目から私を庇うように立った。
きっと彼も、私が何を見てしまったのか分かっている。
「……ごめんなさい」
声が、震える。
こんな場所で泣いてはいけないのに、俯けば涙がこぼれ落ちそうで――
顔を上げても、視界は滲んだままだった。
「お前が謝ることじゃない」
ハルは少し呆れたように言い、頭をかく。
「俺のことはいい。
こんなくだらない夜会、中座したって構わない」
ぶっきらぼうな言葉が、胸の奥にじんわりと染み渡る。
誰よりも不器用で、けれど誰よりも優しい人。
「無理するな。落ち着くまで、ここにいろ」
そう言って、夜会のためにサーシャが整えてくれた髪など気にも留めず、彼は私の頭を撫でた。
その温もりに、堰を切ったように涙が溢れる。
「……また、何か間違えたか?」
焦った声を上げる彼の様子が、どうしようもなく可笑しくて――
私は、泣きながら笑った。
泣いて、笑って、ようやく呼吸ができる。
(……私は今、この国で生きている。それだけで、十分なはずなのに)
それでも――
ノアの姿を見ただけで、どうしてこんなにも心が痛むのだろう。




