夜のしじま
皇都へ向かう前日の夜、私とハルはベネット侯爵夫妻と共に夕食の席にいた。
「二人とも、休むために来てくれたはずなのに、ほとんど休息にならなかったのではなくて?」
夫人の穏やかな声に、私は控えめに微笑んだ。
確かに、この二日は帝国入りの準備に追われていたけれど、無駄だったとは思わない。むしろ、帝国に降り立つことへの心構えを整える時間になった。
「元々そのつもりで滞在させて頂きました。お時間を割いてくださり、感謝しています」
私が礼を述べると、侯爵は深く頷き、穏やかな眼差しを向けた。
「若いのに、二人とも実にしっかりしておる。神殿での過酷な日々が其方らを鍛えたのか……。いずれ国の未来を担う者たちに違いない。自信を持ちなさい」
「ありがとうございます」
その言葉は胸の奥に静かに沈み、じんわりと温かさが広がった。
神殿にいた頃、私もハルも——動かなければ何一つ情報すら得られなかった。だからこそ、必死に学び、考え、行動し続けてきた。もし皇女として平凡に育っていたなら、この強さも知識も持ち得なかっただろう。
ただし、あの日々を「良かった」と思えるほど、私達は強くない。
それでも今、ハルは王国で王太子として認められ、干ばつからの復興という大きな成果すら挙げた。その姿を見て、誇らしさと尊敬が自然と胸に満ちる。
「あとは帝国の社交界に慣れるだけですわね。そればかりは場数を踏むしかありませんの」
「努力します」
夕食の後、それぞれの部屋へ戻った。
サーシャと明日の支度を終え、沐浴を済ませて寝衣に着替えた頃——
控えめなノックが響いた。
「確認して参ります」
サーシャが扉を開けた瞬間、ぴしっと空気が張る。
「殿下といえど、このような時間に前触れもなく淑女の部屋を訪ねるなど、無礼です!」
小声のつもりなのだろうが、はっきりと響いている。
私は慌てて羽織を掴み、扉へ向かった。
「サーシャ、大丈夫よ。少し席を外してくれる?」
そう言うと彼女はなぜか真っ赤になり、「お邪魔しました!」と逃げるように去っていった。
残されたハルは、珍しく居心地悪そうに視線を泳がせていた。
「ハル、どうしたの?」
「……別に。ちょっと話したかっただけだ。最近、あまり話せてなかったから。それと……お前の好きそうなもの、準備してもらった」
思わず吹き出す。
彼の背後には、丁寧に整えられたティーセットと軽食の乗ったワゴンがある。
彼の口からそのような言葉が出てくるとは思わず、私は思わず吹き出してしまった。見ると、彼の後ろにはティーセットと軽食が載せられたワゴンが置いてある。
彼を部屋に招き入れると、私はお茶を入れた。誰かが配慮してくれたのだろう。ハーブティーから香る匂いはリラックス効果の高いものだった。
「明日の準備はもうできた?」
私よ質問にハルは「あぁ」と短く返事をする。
話がしたいと言って来たのはハルなのに相変わらず無愛想なのが彼らしくって、逆に安心する。
「緊張してる?」
私の言葉にハルは目を伏せた。
「分からない。だが、上手くいけばいいと思っている」
「ハルなら大丈夫!王国でも社交界に馴染んでいたし。それより問題は私よね。何とか人見知りを直さないと……」
「誰が人見知りだって?」
「いや……ほら、聖夜の祝宴とか大勢の人がいると上手く話せなかったし……」
「大丈夫だ、俺がいる」
「だって、ハルにはハルのしないといけないことがあるでしょ!それに……ハルはきっとモテるし……」
王国でも彼と少しでも話をしようとする令嬢は沢山居た。ずっと傍にいるから忘れそうになっていたけれど、彼は物凄い美形だ。そう、私が初対面でこの人が神の化身なのでは無いかと思ったほどに。
今もそう、蝋燭の灯りに照らされた横顔は端正で、白銀の長い睫毛の下の綺麗な金色の瞳、まるで作り物のように美しい。
それに最近はよく笑うようになった。今までは二人の時にしか見せなかった表情。それは嬉しいことなはずなのに、どこかモヤモヤしてしまう自分がいる。
「そんなことを心配しているのか?」
ハルには理解出来ないだろう。たった一人の味方がどこかに行ってしまうのでは無いかと言う不安を。だけど彼を縛りたくは無い。私がふざけて頬を膨らますと、彼は両の手のひらでそれを挟んだ。
「お前だって、会いたい奴が居るんだろ」
その言葉に私の気持ちはズーンと深く沈む。
「そう……だけど」
彼に会いたいと思う気持ちはあるのに、不安の方が強い。
それに、彼は迎えに来ると言ったのに自分から帰国して彼を困らせたら……そもそも今の彼はそれを望んでいるのか……。
五年という月日で私も少しは変わった。それは彼も同じだろう。皇族に恨みを持っているかもしれない。あのときは使命を全うしただけで本当は私の事なんてどうも思って居ないとか……。
ノアと会って何を話せばいいのか分からない。
「まぁ、今回のセレスティア訪問はあくまでも外交の一環だ。何も無ければ、ひと月後には帰れるからあまり気負いすぎるな」
私の気持ちを察してか、ハルは頭を優しく撫でた。どこか言葉と行動がチグハグだ。
そうだ。色々考えすぎていたが、私は皇女エリシアとして帰国する訳ではない。あくまでも外交の一環で訪問するだけ。そのひと月の間にノアと話せるとも限らない。
「まずは皇帝陛下との謁見の際に、お前の両親の墓前に立てるよう交渉してみるから、あまり気落ちするな」
ハルは私がセレスティアに行ってしたいことをちゃんと覚えていてくれて、行動に移そうとしてくれている。それがとても温かい。
「ありがとう」
彼の表情がふっとやわらぐ。
「邪魔して悪かった。明日は早い、もう休め」
そう言って、彼は私の髪を一撫でして部屋を後にした。
扉が閉まると、部屋にはハーブの香りと、言葉にはできない温度だけが静かに漂っていた。




