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私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~  作者: MARUMI
エルダール編

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空の鏡

side ハル

⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


 早朝のハニー宮は、静まり返っていてまるで眠っているかのようだ。淡い靄の向こうで鳥たちが控えめに鳴き、夜の冷気を残した空気が薄く漂っている。


 目を覚まそうと窓を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れ、胸の奥で固まっていた何かが、そっとほどけていく気がした。


 机の上には、積みっぱなしの王政書と帝国語の文献。

 そのすべてに目を通す前に、寝落ちてしまったようだ。


 情けないと思いつつも、自暴自棄になっている暇は無い。気持ちを切り替えようと、深く息を吐いたそのとき――

 視界の端で、中庭をゆっくり歩く影を見つけた。


 朝日が昇りきらない空の下、一人の少女が淡い光をまとっている。

 柔らかい髪が風に揺れ、青紫色のリンドウの花の中を静かに歩む。


(また、こんな時間に……)


 気づけば、理由もなく体が動いていた。

 書類を押しのけ、上着を適当に羽織って部屋を飛び出した。


 小道へ踏み出すと、彼女――エリシアが振り返る。

 驚きと、少し呆れたような微笑みが浮かぶ。


「こんな朝早くから一人で散歩か?」


「あなたこそ。王太子殿下が勝手に抜け出して大丈夫なの?」


 その声が、久しぶりに柔らかくて。

 胸のどこかが、ひどくあたたかくなった。


「息抜きくらい神も見逃すさ」

「神様の名前を軽々しく使わないで」

「はは、昔なら怒られてたな」


 二人で顔を見合わせて笑う。この何気ないやりとりがどれほど恋しかったか、自分でも驚くほどだった。

 張り詰めた日々の中で、自然に笑ったのは久しぶりだった。


 けれど彼女の目の奥には、隠しきれない疲れと不安が滲んで見えた。


 気づいたら、言葉より先に体が動いていた。


「今日は講義も勉強も全部、中止だ」


「え? なに言ってるの、ハル」


「息抜きも仕事のうちだろ。……これは王太子命令だ」


 言うより先に、彼女の手を取っていた。

 温もりが指先に触れた瞬間、胸が跳ねる。


「ちょ、ちょっと……!」


「支度してこい。待ってる」


 自分でも驚くほど強引だった。

 ただ――彼女に笑っていてほしかった。


――――――――――


 支度を終えたエリシアは、街に馴染むよう控えめな服装だったが、その姿だけで世界を明るくしそうなほど、綺麗だった。

 

 ハニー宮をこっそりと抜け出し、馬車で王都へ向かった。


 神殿の支配と干ばつの被害から何とか逃れた王都の朝の市場は、まるで長い冬がようやく明けたかのように賑わっていた。


 焼きたてのパンの香り、果物の甘い匂い、子どもたちの笑い声。人々の表情には、かつてなかった“自由”がある。


 寝る間を惜しんで働いた甲斐があると感じられる場所だ。


「……随分、変わったな」

「うん。前より、ずっと明るい」


 エリシアの瞳も同じように輝いていた。


「わぁ、見て!ガレット!チュロスもある!」

「……甘いものばかりだな」

「だって美味しいじゃない!」


 彼女はそれらを受け取ると、子どものように幸せそうに笑った。そのあどけない姿が可愛くて思わず目を逸らしてしまう。


 次々と露店を巡り、フルーツを二人で分けたり、占いをしたりした。小さな的当てでは彼女が驚くほどの腕前(逆の意味で)を見せ、店主を唖然とさせた。


「……さすが、帝国のお姫様」

「そ、それは関係ないでしょ」

「背後から撃たれないように気をつけないとな」

「ハルの意地悪」

 頬を膨らませる彼女が可愛くて、笑いがこぼれる。


 街角の装飾品店では、彼女は緑の石の髪飾りを手に取り、当ててみせた。


「これ……どう?」


 緑の光が、彼女の瞳と同じ色に染まる。


「……ああ」

 うまく言葉が出なかった。似合うなんてもんじゃない。見惚れていた。


「この色、エリシアの瞳みたいだ」


 言葉にしてから、あまりに率直だったことに気づく。照れ隠しをしようとした時に、エリシアは一瞬、驚いたように目を瞬かせて――少しだけ視線を伏せた。


「……どうした?」

「ううん。何でもないよ」


 そう言って笑ってみせるのに、その目は遠い過去を見ていた。もう戻らない誰かを思い出しているように。


 それ以上は何も言えなかった。聞けば彼女が壊れてしまうような気がして、ただ、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。


 ――自分では、彼女を笑顔にできないのだろうか。


 そんな思いが、静かに灯る。


 沈んだ空気が嫌で、思いつくまま口を開いた。

「……ついてこい。見せたいものがある」


「え?」


 答えを待たず、彼女の手を取って駆け出した。

 

 馬を借り、王都を抜け、森を越えて駆ける。

 秋の風が二人の外套を揺らし、日がゆっくりと傾いていく。


 辿り着いたのは、湖だった。


 風が止まり、水面に空と雲が鏡のように映り、夜が深まるにつれ星がひとつ、またひとつと浮かんだ。


「……綺麗」

 エリシアの声が、揺れる水面のように静かに広がる。


「昔、父上と母上がよく連れてきてくれた」

 エリシアが小さく息を呑む。その頬を、星たちの光がやさしく照らした。


「母上が言ってた。“星は、誰かの祈りの欠片なんだ”って」


 エリシアの瞳が揺れる。

 涙がこぼれる寸前で光を反射しているのが分かった。


 エリシアの瞳が揺れた。星の光を映したその瞳は、涙で濡れているように見えた。


「ごめんなさい、なんでだろ……」


 そっと肩を抱いた。

 小さくてすぐにでも壊れてしまいそうな背中。

 それを守りたかった。


 彼女には笑っていて欲しい。

 でも、たとえ泣いていてもいい。

 ただ、そんな彼女の喜怒哀楽で表せないたくさんの感情を、一番近くで共に感じて寄り添いたかった。


「今日のハル…なんか変だよ…優しすぎるわ」

「変って言うな」


 彼女の髪が肩に触れて、胸の奥が熱くなった。


 ――あの日、神の火で焼かれかけた俺が、

 こんなにも誰かを愛おしいと思う日が来るなんて。


「ただお前には優しくしたいって思っただけだ」


 言葉がこぼれた瞬間、ハルは息を飲んだ。

 けれどもう、止められなかった。この胸に溢れるものを、隠し通すことなどできなかった。


 エリシアは何も言わずに、夜空を見上げた。

 涙が頬を伝い、光に溶けて消えていった。


 秋の始まりを感じる夜気の中、星が静かに降り注ぐ。

 それはまるで、二人の全てを包み込むように――

 静かで、優しい夜だった。

エルダール編はこちらで終了です!

次回からは再会編、いよいよ帝国でのお話に進みます!

プロローグへと繋がる章です。

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