空の鏡
side ハル
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早朝のハニー宮は、静まり返っていてまるで眠っているかのようだ。淡い靄の向こうで鳥たちが控えめに鳴き、夜の冷気を残した空気が薄く漂っている。
目を覚まそうと窓を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れ、胸の奥で固まっていた何かが、そっとほどけていく気がした。
机の上には、積みっぱなしの王政書と帝国語の文献。
そのすべてに目を通す前に、寝落ちてしまったようだ。
情けないと思いつつも、自暴自棄になっている暇は無い。気持ちを切り替えようと、深く息を吐いたそのとき――
視界の端で、中庭をゆっくり歩く影を見つけた。
朝日が昇りきらない空の下、一人の少女が淡い光をまとっている。
柔らかい髪が風に揺れ、青紫色のリンドウの花の中を静かに歩む。
(また、こんな時間に……)
気づけば、理由もなく体が動いていた。
書類を押しのけ、上着を適当に羽織って部屋を飛び出した。
小道へ踏み出すと、彼女――エリシアが振り返る。
驚きと、少し呆れたような微笑みが浮かぶ。
「こんな朝早くから一人で散歩か?」
「あなたこそ。王太子殿下が勝手に抜け出して大丈夫なの?」
その声が、久しぶりに柔らかくて。
胸のどこかが、ひどくあたたかくなった。
「息抜きくらい神も見逃すさ」
「神様の名前を軽々しく使わないで」
「はは、昔なら怒られてたな」
二人で顔を見合わせて笑う。この何気ないやりとりがどれほど恋しかったか、自分でも驚くほどだった。
張り詰めた日々の中で、自然に笑ったのは久しぶりだった。
けれど彼女の目の奥には、隠しきれない疲れと不安が滲んで見えた。
気づいたら、言葉より先に体が動いていた。
「今日は講義も勉強も全部、中止だ」
「え? なに言ってるの、ハル」
「息抜きも仕事のうちだろ。……これは王太子命令だ」
言うより先に、彼女の手を取っていた。
温もりが指先に触れた瞬間、胸が跳ねる。
「ちょ、ちょっと……!」
「支度してこい。待ってる」
自分でも驚くほど強引だった。
ただ――彼女に笑っていてほしかった。
――――――――――
支度を終えたエリシアは、街に馴染むよう控えめな服装だったが、その姿だけで世界を明るくしそうなほど、綺麗だった。
ハニー宮をこっそりと抜け出し、馬車で王都へ向かった。
神殿の支配と干ばつの被害から何とか逃れた王都の朝の市場は、まるで長い冬がようやく明けたかのように賑わっていた。
焼きたてのパンの香り、果物の甘い匂い、子どもたちの笑い声。人々の表情には、かつてなかった“自由”がある。
寝る間を惜しんで働いた甲斐があると感じられる場所だ。
「……随分、変わったな」
「うん。前より、ずっと明るい」
エリシアの瞳も同じように輝いていた。
「わぁ、見て!ガレット!チュロスもある!」
「……甘いものばかりだな」
「だって美味しいじゃない!」
彼女はそれらを受け取ると、子どものように幸せそうに笑った。そのあどけない姿が可愛くて思わず目を逸らしてしまう。
次々と露店を巡り、フルーツを二人で分けたり、占いをしたりした。小さな的当てでは彼女が驚くほどの腕前(逆の意味で)を見せ、店主を唖然とさせた。
「……さすが、帝国のお姫様」
「そ、それは関係ないでしょ」
「背後から撃たれないように気をつけないとな」
「ハルの意地悪」
頬を膨らませる彼女が可愛くて、笑いがこぼれる。
街角の装飾品店では、彼女は緑の石の髪飾りを手に取り、当ててみせた。
「これ……どう?」
緑の光が、彼女の瞳と同じ色に染まる。
「……ああ」
うまく言葉が出なかった。似合うなんてもんじゃない。見惚れていた。
「この色、エリシアの瞳みたいだ」
言葉にしてから、あまりに率直だったことに気づく。照れ隠しをしようとした時に、エリシアは一瞬、驚いたように目を瞬かせて――少しだけ視線を伏せた。
「……どうした?」
「ううん。何でもないよ」
そう言って笑ってみせるのに、その目は遠い過去を見ていた。もう戻らない誰かを思い出しているように。
それ以上は何も言えなかった。聞けば彼女が壊れてしまうような気がして、ただ、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
――自分では、彼女を笑顔にできないのだろうか。
そんな思いが、静かに灯る。
沈んだ空気が嫌で、思いつくまま口を開いた。
「……ついてこい。見せたいものがある」
「え?」
答えを待たず、彼女の手を取って駆け出した。
馬を借り、王都を抜け、森を越えて駆ける。
秋の風が二人の外套を揺らし、日がゆっくりと傾いていく。
辿り着いたのは、湖だった。
風が止まり、水面に空と雲が鏡のように映り、夜が深まるにつれ星がひとつ、またひとつと浮かんだ。
「……綺麗」
エリシアの声が、揺れる水面のように静かに広がる。
「昔、父上と母上がよく連れてきてくれた」
エリシアが小さく息を呑む。その頬を、星たちの光がやさしく照らした。
「母上が言ってた。“星は、誰かの祈りの欠片なんだ”って」
エリシアの瞳が揺れる。
涙がこぼれる寸前で光を反射しているのが分かった。
エリシアの瞳が揺れた。星の光を映したその瞳は、涙で濡れているように見えた。
「ごめんなさい、なんでだろ……」
そっと肩を抱いた。
小さくてすぐにでも壊れてしまいそうな背中。
それを守りたかった。
彼女には笑っていて欲しい。
でも、たとえ泣いていてもいい。
ただ、そんな彼女の喜怒哀楽で表せないたくさんの感情を、一番近くで共に感じて寄り添いたかった。
「今日のハル…なんか変だよ…優しすぎるわ」
「変って言うな」
彼女の髪が肩に触れて、胸の奥が熱くなった。
――あの日、神の火で焼かれかけた俺が、
こんなにも誰かを愛おしいと思う日が来るなんて。
「ただお前には優しくしたいって思っただけだ」
言葉がこぼれた瞬間、ハルは息を飲んだ。
けれどもう、止められなかった。この胸に溢れるものを、隠し通すことなどできなかった。
エリシアは何も言わずに、夜空を見上げた。
涙が頬を伝い、光に溶けて消えていった。
秋の始まりを感じる夜気の中、星が静かに降り注ぐ。
それはまるで、二人の全てを包み込むように――
静かで、優しい夜だった。
エルダール編はこちらで終了です!
次回からは再会編、いよいよ帝国でのお話に進みます!
プロローグへと繋がる章です。




