薄明
年が明けてすぐ、ハルの王太子任命式――立太子礼が執り行われた。
あの日の光景を思い返すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
玉座の前に立つハルの姿は、久方ぶりに“本来あるべき場所”へ戻った王太子そのものだった。
まっすぐ前を見据える横顔に射す光は、まるで彼の帰還を祝福しているようで、広間に満ちる歓声が波となって押し寄せた瞬間、私は誇らしさに息が詰まりそうになった。
彼はここに立つために、一体どれほどの苦難を越えてきたのだろう……。
ようやく彼は“本来の居場所”を取り戻したのだ。
誰より近くでそれを見届けられたことが、今でも私の心を支える光になっている。
それからの八ヶ月は、振り返れば、まるで誰かが走馬灯の速度を早送りにしたような日々だった。
憂う暇など、一度たりともなかった。
朝は陽の昇る前に始まり、夜は蝋燭の火が短くなるまで終わらない。
王城のどこかで常に足音が響き、誰もが慌ただしく動き、新しい書類と予定表が積み上がる。
その中心に、私とハルがいた。
ハルは王太子としての役目をこなしつつ、帝国語を基礎から叩き込まれていた。
もともと飲み込みが早い人だけれど、それでも短期間で礼法・歴史・宗教観・政治体制まで学ぶのは無茶そのものだった。
(……よく倒れないな)
そう思うほど、彼は限界ぎりぎりまで動き続けていた。
けれど――
彼の姿を見て、自分だけが立ち止まるわけにはいかないとも思った。
私は“聖女セラ”として国を代表して帝国へ赴く。
同時に“エリシア”としても空白の歳月を埋め直さなければならなかった。
帝国の格式、宮廷の立ち居振る舞い、言葉遣い、外交儀礼を復習し、更に年相応の物に洗練させる必要があった。
加えて王国側の文化・政治・歴史も学び、外に出れば王国の顔として振る舞わなければならない。
朝は淑女としての再訓練、昼は王国の文化の講義、夜は帝国の伝統と宮廷での作法の復習。
ひたすらに、こなす。
こなして、こなして、またこなす。
それでも――時々ふと、胸の奥に冷たい空洞のようなものが顔を出した。
(私は、いったい誰なんだろう)
王国のことを学ぶときは“セラ”でなければならない。帝国の礼法を学ぶときは“皇女エリシア”の私が現れる。民に祈りを乞われれば“聖女”であることを求められた。
どれも私なのに、どれも私ではないようで。
名前を呼ばれるたび、薄い膜の向こう側にいるような感覚があった。
ハルに会うたびに、安心する瞬間があった。
けれど彼もまた疲労を隠せず、目の下に薄く影を落としている。それでもいつも通りに笑うから、余計に胸が痛んだ。
「大丈夫だ」
そう言ってくれた声が、どれほど救いになっただろう。
私も笑って返す。
だけどそのあと、内心でふと怖くなるのだ。
(いま、彼に向かって笑っている私は、どの“私”なんだろう)
“聖女セラ”なのか
“皇女エリシア”なのか
――それとも、ただの私なのか。
そんなことを考えて、自分で自分が分からなくなりそうになる。
ある夜、講義を終えて部屋に戻ったとき、鏡に映った自分がふと他人に見えた。
髪をきっちり結い上げられ、宮廷仕様のドレスに身を包み、背筋を伸ばした姿。
そこには、命からがら亡命し、聖域に閉じ込められ、神罰を受けた私の面影はほとんどなかった。
「……変わったのかな、私」
呟きながら、胸がざわつく。
変わらなければ、帝国には行けない。
けれど変わっていく自分を第三者のように見つめているもうひとりの私がいた。
それでも翌朝には、また次の講義、次の訓練、次の公務が待っている。息をつく間もなく、カレンダーはめくられていく。
気が付けばば、季節が変わっていた。
八ヶ月という時間が過ぎたのに、その間の記憶は驚くほど曖昧で、ただ“必死で前に進み続けた”感覚だけが残っている。
それでも、もうすぐだ――
帝国へ行く日が。
心臓が早鐘を打つ。
恐怖でも、期待でも、懐かしさでもない。
その全部を混ぜて、さらにぐるぐるかき混ぜたような。
そんな感情を胸に抱えながら、私はそっと窓を開けた。清々しい風が流れ込む。昼間はまだ夏の日差しが残るのに、朝晩には秋の気配が漂う。
少し外を歩きたくなって、私は中庭に出た。
東の空では東雲色の朝焼けがゆっくりと滲みはじめ、眠っていた世界の縁を静かに照らしていた。
早朝だけの儚い空気。まるで世界に一人きりのような……静かで、少し冷たくて、清々しい。寂しいようで居心地がいい、奇妙な時間。
今だけは私がわたしで居られるような、そんな気がした。
この太陽が昇れば、きっとまた"日常"が始まる。
その前に……
"何か"したいのに、それが何かも分からない。
本当の私の本当の声が、本当の願いが分からない。
金色の光が東の山々から差し込む。
また、今日が始まる…




