記憶の蓋
ハルが部屋を出ていき、扉の音が小さく響いたあと――
ふっと、足の力が抜けた。
腰を下ろす場所を探すように、ゆっくり寝台へ歩く。
けれど、いざ腰を下ろすと、胸の奥が妙にざわついて落ち着かなかった。
……帝国へ帰る。
もしかしたら、長い人生の中でエルダールで過ごしたこの亡命の時間はごく僅かなことのかもしれない。
それでも私にとっては長く、既に帝国で皇女として暮らした日々は夢だったかのように現実味が無い。
何時からだっただろう。
あえて思い出さないようにしていた気がする。
大好きだった父の笑顔も、母の匂いも、弟のちいさな手も……。
その記憶に触れれば胸が締め付けられるように痛くて、苦しくて。
呼吸すら苦しくなって、目頭が熱くなる。
「……っ」
帝国に行きたいのか、行きたくないのか
――どちらなのか、自分でもよく分からない。
きっと帝国にはその記憶を呼び起こさせる様々な場所や人、物があるのだろう。
家族で過ごしたあの部屋も、レオンと駆け回った回廊も、ノアと出会った庭園も…。
きっと行けば辛くなる。私はその痛みに耐えられるだろうか。
それでも、帝国に行きたいと思うのは、帝国に行けば父と母のお墓があるからだ。
まだきちんとお別れを言えていない。
伝えたいことがたくさんある。
そこに二人は居なくても…父と母に会える場所は、言葉を伝えられる場所はそこにしか、無い。
それに……帝国には彼がいる。
今だけは、誰にも見られないように。
静かに震えながら、私は小さく呟いた。
「……ノア」
名前を呼ぶ声は、雪のように淡く消えていく。
膝を抱えて、ゆっくりと目を閉じた。
別れたあの朝の言葉は、今も胸の奥に残っている。
――必ず、迎えに行きます。
あのとき、彼はどんな顔をしていたのだろう。
振り返らなかったのは、決意なんかじゃなかった。
揺れる自分が怖かった。
離れたくない気持ちを優先しそうになる自分を、必死で抑えた。
一つ思い出すと、次々にあふれてくる。
絶望の縁にいた私をそっと包んでくれた温もり。
焚き火のそばで知った初めての感情。
いつも味方でいてくれた笑顔。
はじめて街を歩いたときのはちみつの香りも、一緒に眠ったあの夜も。
細かな情景は薄れても、胸に残る感情だけは、今も鮮明だ。
――会いたい。
私はノアに会いたい。
でも、もし彼に忘れられていたら?
考えただけで胸がひどく締めつけられた。
それに、今の私が彼と会って話すことなんてできるのだろうか。
“聖女セラ”であり、“王太子のパートナー”でもあるこの立場で。
考えれば考えるほど、自分がどう動くべきなのか分からなくなる。
そっと視線を窓へ向けた。
月明かりがカーテン越しに揺れ、床に淡い影を落としていた。
どうしてか、月を見ると彼を思い出す。
(……ハル)
優しくて、まっすぐで、時々意地を張る。
あの人は、いつも私を“一人の人”として見てくれる。
彼の言葉が、まだ胸の中に残っていた。
――どれだけ遠くへ行っても、俺はお前を連れて帰る。
なぜだろう。
嬉しいはずなのに、涙がこぼれそうになった。
私が誰を想っているのか、きっと彼は気づいている。
それでも背中を押してくれた。
それが――苦しい。
「……ずるい、よ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ノアか、ハルか、それとも……私自身か。
胸に手を当て、深く息を吸う。
冷たい空気が肺の奥まで降りてきて、身体が少し震えた。
(行かなくちゃ……確かめたい)
誰のためでもなく、自分のために。
これからどこに立って、誰の隣に立つのか。
逃げ続ける人生は、もう嫌だった。
行くと決めた。
けれどその決意と同じ重さで、恐怖も胸に居座っていた。
もし、何も変わっていなかったら。
もし、すべてが変わってしまっていたら。
そして――帰る場所がなくなってしまったら。
夜の静けさの中、震える肩を月明かりだけがそっと照らしていた。




