雪明かり
side ハル
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国王からの言葉を受け、俺は文書を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
聖夜の祝宴の余韻は、まだ体のどこかに残っている。
キャンドルの灯りが波のように広がっていった光景。
隣で、彼女がそっと火を掲げた瞬間の横顔。
あの静寂で美しい時間が、すでに遠い。
――帝国へ。
その現実が、心に冷たい影を落とす。
考え込んだとしても、答えは変わらない。
ならば、まず伝えなければならない相手がいる。
俺はエリシアの部屋に歩き出した。
エリシアの部屋の前に立つと、扉の下からかすかに漏れる光が見えた。
眠っていないのだろうか。
「……セラ? 起きているか」
返事はない。
だが、なぜか胸騒ぎがして、そっと扉を開けた。
部屋の奥。
バルコニーのカーテン越しに、白い光が揺れる。
彼女は――聖夜のドレス姿のまま、外に立っていた。
夜気は冷たいのに、肩にはショールも掛けていない。
ただ静かに、雪のような月明かりを眺めていた。
「……寒くないのか」
思わずかけた声が、自分でも驚くほどかすれていた。
エリシアは振り返る。
その瞳は、祝宴の温かな光から遠く離れたように、深く澄んでいた。
「ハル……なんだか眠れる気がしなくて」
「……聖夜の余韻か?」
軽い冗談のつもりだったが、彼女は小さく笑っただけで答えなかった。
――言わなければ。
胸に抱えていた封書が、急に重さを増した気がする。
「帝国から、招待状だ」
その言葉に、彼女の睫毛がわずかに揺れた。
驚きよりも……覚悟に近い静けさ。
帝国からの招待と国王の考えを話すほどに、彼女の表情に落ちる影が深くなっていくのが分かった。
「無理はしなくていい。ただ……一応伝えたかっただけだ。帝国へは俺一人で行く」
伝え終えるより早く、その言葉が口をついていた。
恐れていたのだ。
この話を告げた瞬間、彼女がどこか遠くへ離れてしまうのではないかと。
だから、彼女に黙って帝国へ行くという選択肢も頭にあった。
だがそれは、彼女の意志を踏みにじることになる気がした。
「……建国祭、ですか」
エリシアは目を伏せる。
風がドレスの裾を揺らし、その白が淡い月光にとけた。
「それならば、王太子にはパートナーがいた方が自然でしょう。
あの本は帝国でも人気だそうですし……聖女“セラ”が隣にいれば話題性も十分です。庶民であることが少し心配ですね…」
彼女の声は、震えていない。
むしろ驚くほど落ち着いていた。
だが、そこに“彼女自身の気持ち”はなかった。
「エリシア……俺は、お前の意志を尊重したい」
そう告げると、彼女の指先が、ほんのわずか強張った。
「……分からなくて」
声は震えていた。
その震えの奥に、“懐かしさ”のような感情があるのを感じた。
彼女が帝国を逃れた時のことは以前に聞いた。
あのとき、彼女をエルダールへ逃がし、自らは国へ戻らざるを得なかった少年がいたことも……。
「……帝国に、会いたい人がいるのではないのか?」
その言葉に、エリシアははっとしたように俺を見た。
そして、逃げるように視線をそらし、小さく笑った。
「……四年も前に別れた方です」
ノア。
その名を、彼女の口から聞いたことがある。
神罰として五日間、牢に閉じ込められていた時、彼女がうなされながら呼んだ名だ。
胸の奥がざわりと軋む。
その正体を、認めたくなかった。
「忘れられてるかもしれない、ってか」
「……ええ。連絡もありませんし」
言葉が詰まる。
沈黙がいやに痛い。
だから、わざとぶっきらぼうに言った。
「……なら、確かめればいい」
「え……?」
「行きたい気持ちが少しでもあるなら、行けばいい。
帝国のことは詳しくないし……お前が来てくれた方が俺は助かる」
エリシアは驚いたまましばらく黙り、それから息を漏らして笑った。
「……ハルって、いつもそう」
「何がだ」
「優しいのに……言葉が不器用」
「……うるさい」
それでも、その笑顔を見てほっとした。
彼女は、俺よりずっと強いのかもしれない。
月明かりの下で、エリシアはまっすぐに言った。
「……行きます。セレスティアへ」
「……そうか」
その言葉が、静かに胸の奥へと沈んでいった。
彼女は帝国でその男と再会し、二度とここに戻ってこないかもしれない。
その可能性が胸を締めつけるのに、引き止める言葉はどうしても出てこなかった。
「……寒いだろ。中に入れ」
そう言って手を差し出すと、エリシアはためらいがちに、それでも素直にその手を取った。
細くて、冷たい手
いつでも離れてしまいそうな頼りなさもあった。
彼女を部屋の中へ導き、そっと扉を閉めた瞬間、外の月明かりが消える。
残ったのは、二人分の淡い呼吸だけ。
「エリシア」
呼べば、彼女は静かにこちらを見る。
その瞳に映るのは、俺ではなく――
帝国の記憶か、懐かしい誰かの影か。
それでも、俺は言わなくてはならなかった。
「……どれだけ遠くへ行っても、俺はお前を連れて帰る」
それは約束ではなく、願いでもなく――ほとんど祈りに近い言葉だった。
エリシアは驚いたように目を瞬き、それからそっと微笑む。
「……はい」
その笑顔が、なぜだか胸に痛いほど沁みた。
まるで、別れの予告みたいに静かで優しいから。
「明日、王に返事をする。出発まではまだかなりある。準備を整えて……帝国へ向かおう」
「分かったわ」
短い返事。弱いけれど確かな声。
彼女は再び寝台の方へ歩き、ドレスの裾を手に持ちながら振り返った。
「おやすみなさい、ハル」
「……あぁ。ゆっくり休め」
部屋を出て扉を閉めた瞬間、胸に広がるのは安堵でも期待でもない。
ただひとつの、どうしようもない予感。
――帝国へ行けば、彼女は“本当の居場所”を見つけてしまうかもしれない。
その未来を恐れているのは、他でもない俺自身だった。




