願いの灯火
「どこに行く?」
“誰か”なんて言うまでもない。
匂いと声で、すぐにわかる。
――ハルだ。
「強姦と勘違いして殴りかかったらどうするの?」
冗談めかして言うと、背後のハルの体がわずかに硬くなる。
「王宮の祝宴で、そんな輩がいると?」
皮肉を言い返す声は落ち着いているのに、腕の力だけが僅かに強まる。
「例え話よ」
「どうして俺の傍から離れた?」
その問いは、責めるというより……不安に触れるような声だった。
「どうしてって……人混みに流されただけだよ」
「傍にいろと言っただろ」
「だって、今日のハル……なんか、怒ってたから」
そう言った瞬間、ハルが小さく目を瞬かせた。
風に揺れた前髪の奥で、瞳がわずかに揺れる。
「……怒ってなどいない」
「え? でも、なんか冷たくなかった?」
問いかけると、ハルは数秒だけ視線を落とした。
その横顔は、言葉を探しているというより――飲み込んだ言葉が喉につかえているように見えた。
「……言えなかったからだ」
「言えなかった?」
顔を覗き込むと、ハルは耳まで赤く染め、ほんの少しだけ私から視線を逸らす。
普段決して見せない、弱い仕草。
「……お前が、綺麗だと。一番に言えなかった」
その声は消え入りそうで、
けれど確かに熱を帯びていた。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……なんか、色々考えてた私が馬鹿みたい」
「何を考えていた?」
ハルは眉尻を少し下げ、
答えを待つように私の顔を覗き込む。
抱き寄せていた腕の力が、わずかに緩む。
「……秘密」
そう言うと、ハルは長い睫毛を伏せ、ひとつ小さく息を吐いた。
その表情は、寂しさと安堵が混じったような――複雑な影を落としている。
「俺には……言えないことか?」
――うん。ハルには言えない。
『あなたとはずっと一緒にはいられない』なんて。
本当は、そんなこと言いたくない。
でも、今だけはこの温もりに甘えたかった。
だめだ。
彼といると、どんどん欲張りになってしまう。
「王子殿下を煩わせるわけにはいきませんから」
笑ってみせると、ハルは少し寂しそうな顔をした。
そんな顔をさせたくて言ったわけじゃない。
でも、このままではだめだとわかっている。
ふと、思う。
私の気持ちは……どこにあるのだろう、と。
立場、掟、命の危険。
一緒にいられない理由はいくらでもある。
でも、もしそれらが全部なかったら――私は誰といたい?
そもそも、理由を探して逃げている時点で、どうなんだろう……
ハルのことが好きなのは、本当の気持ち。
でも、どっちつかずな態度を取っていていいはずがない。
過去と向き合うには――もう一度、ノアと会わなくてはいけない。
そんな予感が、胸の奥で静かに燻っていた。
その時、鐘の音が響いた。
――ゴーン、ゴーン。
聖夜の祝宴のメインイベントの合図だ。
「行きましょう」
声をかけると、ハルは頷き、そっと手を差し出す。
再び会場へ戻ると、室内は照明が落とされ、薄く闇に包まれていた。
使用人からキャンドルを受け取り、王の隣へ並ぶ。
やがて王のキャンドルに灯りがともり、それがハルへ、そして私へと手渡されるように広がっていく。
ひとつ、またひとつ――灯火が会場を満たし、幻想的な光景が広がった。
まるで神々の住む世界が降りてきたようで、胸の中にあった雑念が一瞬でかき消える。
ただ、ただ、美しい。
全ての火が灯ったとき、王が声を張り上げた。
「王国の繁栄を願って」
そう言い、彼は自らの灯火を吹き消す。
私はそっと、胸の内で願った。
――どうか。ハルがこの国で幸せに生きられますように。
その隣に誰が立つとしても構わない。
どんな未来でも、彼には笑っていてほしい。




