人に戻った青年
神殿の炎が鎮まってから、五日が経った。
王都を包む空気は重く、街路の人々の表情はどこか硬い。
その日、ハルと私は王城へと呼び出された。
石畳を踏むたび、胸の奥で心臓の鼓動が不自然に大きく響く。
私だけではない。隣を歩くハルもまた、足取りこそ静かだがどこかいつもと違った。
謁見の間に足を踏み入れると、広間は沈黙そのものだった。
黄金の天蓋の下――老王がひとり、玉座から降り、背を丸めるように椅子へ腰を下ろしていた。
かつて国を統べる者として威厳の象徴だったその姿は、今では影が落ちたように細い。
その瞳は、私たちを見ることを恐れるように伏せられていた。
「……よう、来てくれたな」
かすれた声が、静まり返った広間に落ちる。
王は震える手で杖を握りしめ、きしむように立ち上がると、ゆっくりとこちらへと歩み寄った。
玉座の階段を降りきったその瞬間――信じ難い光景が広がった。
――王が、ハルに頭を下げたのだ。
「……すまなかった。
お前の父と母に……そして、お前に」
深く、深く――項が見える程に。
だが、ハルは動かなかった。
しばらく沈黙が続いた後に彼は口を開いた。
「なぜ、止めなかったのですか」
静かだが、ひどく乾いた声だった。
怒りよりも、ずっと深い哀しみの響きを帯びている。
その声は、幼い日に家族を奪われた少年の小さな叫びのようだった。
王は苦しそうに息を吐き、椅子へ戻ると、しばらく口を閉ざした。
沈黙が広間を包み、外の風の音だけが遠くかすかに聞こえる。
そして、王はゆっくり語り出した。
「神殿が民を静かに保ってくれるのなら、それでいいと思っていた。
“神への献金”と称して税を集め、安定が保たれるなら……それが国を守ることだと、そう信じてしまったのだ」
その言葉に、ハルの拳がぎゅっと握られ、白く染まっていく。
「だが、お前の父上と母上は……違った」
王は目を伏せたまま続けた。
「彼らは、この偽りを正そうとした。
神の名を盾に民を縛ることを、終わらせようとしたのだ。
――それを恐れた大神官たちが、事故を装って……彼らを葬った」
王の喉が詰まり、言葉が途切れた。
老いた指が、膝の上で震えている。
「私は、見て見ぬふりをした」
かすれる声。
「民が荒れ、国が崩れるのが怖かった。
……だが、本当に守らねばならないのは、“国”ではなく“人”だったのだな」
広間に落ちた静寂は、鎖のように重く、切ない。
王の白髪が過ぎた年月を静かに物語る。
やがてハルは歩み出た。
ゆっくりと、王の前へ。
金の瞳は、冷たくも澄み切っていた。
そこには憎しみも恨みもなく、ただ真実を受け止めた人間の静かな光だけが宿っていた。
「少し、昔のことを思い出しました。
あの馬車の事故の日、父と母は二人で俺を庇ってくれた。
俺が生き残ったのは……神の奇跡なんかじゃありません」
低く、だが確かな声。
「ただ、父と母が……生かしてくれただけです」
王の頬を、一筋の涙が伝う。
それは王としてではなく、家族としての涙だった。
「……それこそが奇跡だ」
王は震える声で言った。
「神ではなく……人が繋いだ命の奇跡だ」
ハルはしばし目を伏せて、その言葉を静かに受け止めた。
その表情は憑き物が落ちたような穏やかな表情だった。
こうして長く続いた狂信の幕は、ようやく下ろされた。
王の勅命により、生き残った神官長たちは処刑され、神殿は解体されることとなった。
そして民へ布告が出された。
『信仰は心にあり、血に求めるものにあらず』
その言葉を読んだとき、ハルはそっと目を閉じた。
頬を伝う一筋の涙は、ようやく“人”へ戻った青年が、過去と決別するための、静かな涙だった。
この話をもちまして、神殿編は終わりです。
"神様"や"信仰"といった内容で
少ししんどいお話が続きましたが読んで頂きありがとうございます!
リアクション残してくださるのが嬉しかったです!
次章からは物語が動いていくので、続けて読んでいただけると嬉しいです




