本当の名前
それから神殿の火は勢いを増し、鎮圧されるまでに三日を要した。
幸い、風向きのおかげでハニー宮への延焼は免れたものの、水晶宮は三分の一が崩れ落ちた。
焼け落ちた神殿には、いまだ微かに灰の匂いが残っている。
くすぶる瓦礫の隙間からは細い煙が立ち上り、崩れた聖像の影が、薄らと差し始めた朝日の中に横たわっていた。
ハルはその中央に、ひとり立っていた。
白銀の髪が朝風に揺れ、金の瞳は深い湖底のように静まり返っている。
「……終わった、か」
低く漏れた声には、安堵も悲しみも混ざっていなかった。
ただ、長い年月押し殺してきた感情の重みだけが、霧のように溶けていく。
「……ねぇ、ハル」
煙を吸い込んだせいで、喉の奥がまだ痛む。
かすれる声で呼びかけると、彼はゆっくりとこちらへ視線を向けた。
「もし、本当に神様がいるなら……どうして、私たちをこんなふうにしたんだろう」
ハルはしばらく答えなかった。
崩れ落ちた聖像を仰ぎ見たまま、少し沈黙を抱え――そして、静かに言う。
「気づいただろ。神なんていない。
あるのは“信じたいもの”を形にした人間の欲望だ。
……俺たちは、それに捧げられただけだ」
私は足元に転がっていた聖印を拾い上げた。
煤で黒く焦げたそれは、もはや“聖なるもの”には見えない。
「そう…だよね…」
願うことすら無意味だと分かっていても、祈らずにはいられなかった日々があった。
父も母も弟も奪われ、ノアとも会えず、いつ終わるとも分からない絶望の中で――それでも神を求めてしまった弱い自分がいた。
「信じるのは自由だろ」
ハルは淡々と言うけれど、その横顔はどこか優しかった。
「そういえばさ。私たち、もう神子じゃないでしょ?」
「……あぁ」
「じゃあ名前!変えてよ。
“セラ”って、ハルが勝手につけた名前」
冗談めかして言うと、ハルがわずかに目を細める。
「あの時は……すまなかった。本当に……。
名前を教えてくれ。……皇女様」
その言葉に少しだけ胸が痛んだ。
彼も、あの話を聞いていたのだろう。
「……エリシア。
それが、父と母が私にくれた名前」
ハルはその名をゆっくりと繰り返した。
「エリシア……」
朝の風が吹き抜け、灰を巻き上げながら私の髪を揺らす。
「危なく……ないのか」
ハルが問う。
その声は思ったよりも弱く、脆く揺れていた。
「この三年半、身を隠すために耐えてきたんだろ。
それを……俺のせいで名乗り出すことになった」
私はその言葉に胸が締めつけられた。
確かに、すべてを無にしたのかもしれない。
でも、後悔は――少しもなかった。
「それでも、ハルを助けたかったから。
後悔なんて、何ひとつないよ」
そう言いながらも、心の奥に不安が芽生えていくのを感じていた。
神子としての縛りが消えた今、私とハルをつなぐ“役目”はもうない。
もう一緒にいる理由もなくなってしまったのかもしれない。
(……これから、どうなるんだろう)
ノアは迎えに来ない。
帝国はまだ危険な場所のまま。
ハルは王族で、私は追われる身で――。
未来は、少しも見えなかった。
「でも……そうね。これから、どうしようかしら」
不安をごまかすように笑うと、ハルは静かにこちらへ歩み寄った。
「なら――もう少し、そばに居ろ」
その声は強がりで、どこか祈るようで、胸に深く落ちてくる。
「王子殿下の侍女とか?」
わざと軽口を叩くと、ハルは小さく息を漏らして笑った。
「着替えや、湯浴みの手伝いも含むが?」
「そ、それくらい楽勝だよ!」
言い返すと、ハルはわずかに意地悪く笑う。
「……それは楽しみだ」
ほんの短いやり取りなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
でも同時に、その温度が消えてしまうのが怖くてたまらなかった。
(私は……この人と、離れたくない)
そう思った瞬間、風が吹き、灰がふわりと舞い上がった。
空へと溶け、過去の痛みを連れていくように。
だが私たちの未来は、まだ何も決まっていない。
ただ隣に立つ彼の体温だけが、確かな今を示していた。




