告発者
その日は、まるで嵐がひそかに近づいていたかのように、唐突に訪れた。
朝の祈りの場──いつもなら最前列に静かに立っているはずのハルが、その日だけは姿を見せなかった。
胸の奥が、ひやりと冷たく沈む。
嫌な予感がした。祈りを捧げながらもずっと息が苦しかった。
私は慌てて部屋に戻り、朝食を運んでくれるサーシャを待つことにした。
焦りで足先が落ち着かず、部屋の中を歩き続ける。今、神殿内で私が頼れる情報源は彼女だけだった。
しばらくして、扉が小さく叩かれる。
朝食を載せた盆を抱え、サーシャが現れた。
しかし、彼女はいつもよりよそよそしく、まるであえて私に"今は話しかけないで"と伝えているようであった。
胸が騒いだ。だが無理に詮索して彼女を危険に晒すわけにはいかない。
私は日常会話だけを淡々と交わし、彼女の意図を信じて何も聞かなかった。
サーシャが部屋を出ていき、扉が静かに閉じられた後、スープ皿の下に小さく折り畳まれた紙片を見つけた。
広げた指先が震える。
“監視されているので、お話しできないことをお許しください。
ハル様が異端の罪で、神殿の地下牢に囚われました。”
視界が歪む。
紙を持つ手が力なく震え、その場に崩れ落ちそうになった。
異端の罪──エルダールにおいて最も重く、最も残酷な判決が下される罪。
証拠が現れれば即刻、極刑。逃げ場などない。
今頃彼は、暗い地下で拘束され、証言を引き出すための尋問を受けている。
いや、それどころか──拷問が始まっているかもしれない。
胸の奥で、何かが悲鳴を上げた。
すぐにでも地下へ走り出したい衝動が、脈打つように全身を駆け巡る。
だが、足を踏み出せば私自身も確実に捕まる。
そうなれば、二人とも終わりだ。
……考えなければ。
ただ突っ込むだけでは、また失敗を繰り返すだけ。
私は震える手を握りしめ、深呼吸をして心を慰めた。
その日一日、何も知らないふりをして祈りに出て、神子としての務めをこなし続けた。
表情は静かに、心は荒れ狂う嵐のまま。
どうすれば彼を救えるのか、その一点だけを考え続けた。
──そして夜。
祈りを終え、部屋に戻り、沈黙の修行という名の思索に沈んでいた時だった。
雨音が聞こえ始め、回廊の奥から水滴が落ちる規則的な響きだけが空気を震わせていた。
その静寂を破るように、扉の方から声がした。
「……神の声など、もう何年も誰も聞いちゃおらんよ」
反射的に振り返ると、開け放たれた扉の前に、一人の老神官が立っていた。
顔には深い皺が刻まれ、震える手は長い年月を物語っている。
──まずい。思索に沈みすぎて、気配に気付けなかった。
声を上げて助けを呼ぼうとしたその瞬間、老人の瞳がこちらをまっすぐに射抜いた。
光のない神殿で生き続けた人間とは思えないほど、強い、決意の色を宿して。
「神託など……全部、大神官たちの作り物だ。
“神の声”などな、古い石に人間が刻んだだけのものだよ」
鼓動が跳ね上がった。
──告発。
この人は、私に真実を伝えようとしている。
「……証明できますか?」
「できるさ。神殿の奥に、その石が保管されている」
「そこへ……私を連れて行ってください」
老人は一度だけ瞼を伏せ、それから静かに頷いた。
「神など、もうどうでもいい。
ただ……誰かが、この茶番を終わらせてくれれば良い」
私は迷わず立ち上がり、老人の後を追った。
火の灯らぬ回廊はまるで今の私達の状況を示すように闇に沈んでいる。
息をひそめ、一歩ずつ進むたびに床石がわずかに軋む。
「どうして、この道をご存知なのですか」
「わしはこの神殿に六十年勤めておる。誰も使わぬ古い抜け道ぐらい、嫌でも覚えるさ」
彼の年齢を思えば、それも納得だった。
「なぜ……私に真実を?」
「貴女は幾度となく、忌まわしい風習を止めようとしておられた。
それに……貴女は、わしが若い頃にお仕えした神子様によく似ておる」
「神子様?」
「はい。私が十代の頃にお仕えしていた神子様です」
老爺の声色が優しいような懐かしさを帯びた色に変わる。彼にとってその神子は大切な存在だったのであろう。
「その方と貴方は親しかったのですね」
私の言葉に老爺は驚いたように目を丸くすると、懐かしむように息を吐く。
「今は遠き方です」
その時、私はハルの言葉を思い出した。
――神子に生き延びた者はいない
「それは……」
「勘違いなさらないでください。私の仕えた神子様はかの大国の皇后になられたのです」
皇后?つまり帝国セレスティアに嫁いだということになる。年齢からするに……皇太后様?
確かに皇太后である祖母は異国の出身だ。それに、祖母から昔話を聞いたことがある。神の使いである神子ととある国の王子様との恋物語を…。当時の私は、ちょうどそのような物語に憧れており、何度も何度も繰り返し聞かせてもらった。
「その神子の名前はヘレネーといいましたか?」
「どうして、そのことを?」
「私の曾祖母です。だから似て見えたのかもしれません」
老人は驚愕し、そして涙ぐむように微笑んだ。
「そうでしたか……。道理で、祈りの儀で拝見した時、まるであの方が帰ってこられたようでした」
きっと、この人は曾祖母に恋をしていたのだろう──柔らかな目の奥に、そんな気配が宿っていた。
「では……貴方が、曾祖母を逃した“神官”ですか?昔、その話を聞かされました」
「ヘレネー様がそのようなお話を……私のことを覚えていらしたのですね…」
彼の声は震えていた。
やがて私たちは神殿の最奥にたどり着いた。
扉を開けると、冷たい空気とともに乾いた埃が舞い上がる。
中央には金と宝石で飾られた台座。
その上には──黒い石。
彫りかけの文字が、痛々しく残っている。
周囲には彫刻刀と、削り落ちた石の粉。
「……これが、“神の声”?」
私は石に刻まれた文字を指でなぞり、読んだ。
《――信仰を、保て。従わぬ者は、滅ぶ――》
温度のない言葉。
そこに神も祈りもない。
ただ人間の欲と支配のために造られた“偶像”。
頬を、涙が伝った。
「これが……神の正体……?」
「はい。すべて、人の手によるものです」
あぁ……そうか。そうだったのね。
ここでの信託は全て、神官達によって作られたもの。
その信託で、神の意でどれ程の人が苦しみ、悲しみ、命を奪われたのだろう……。
「……許せない」
胸の奥に、黒い炎のような憎悪が巻き上がる。
これほどまでの感情を抱いたのは、生まれて初めてだった。
信じたことはなかったはずなのに──それでも心のどこかで、祈りのかけらを抱いていた自分がいた。
その想いすら利用されていたのだ。
「……私が信託で神子に選ばれたのも、誰かの思惑で、描かれた物語の“役”に過ぎなかったのね」
ならば、敵は私が皇女エリシアであることすら知っている。
すべては最初から仕組まれていたのだ。
涙を拭い、私は静かに息を吸った。
「……なら、私も。手段を選ばず戦わせてもらうわ」
その瞬間、祈る少女の心は消えた。
残ったのは──大切な人を救うため、神殿そのものと戦う覚悟だけだった。




