震える手
あの生贄の日から神殿には暗い影が落ちた。
それは、ほんの小さなことから始まった。
夜、神殿の奥で祈りの蝋燭がひとつ、風もないのに消えたらしい。
それだけの出来事が、「不吉の兆し」と呼ばれた。
そして翌朝、誰かが囁いた。
——“神子が異端に染まったせいだ”と。
はじめは、放っておけばすぐに消える一時の噂だと思った。
けれど神殿の空気は日に日に重く、冷たくなった。
廊下を歩けば、すれ違う神官や侍女の視線が揃って逸れ、それまで当たり前のように供えられていた神子への花は——
いつの間にかどこにも置かれなくなった。
ハルの衣には小さな汚れが目立つようになり、侍女の話によれば、彼の食事も断食と称して抜かれているらしい。
朝の図書館。薄い光が差し込む静かな空間で、ハルは本を閉じながら言った。
「気にするな」
その声は確かにいつも通りだった。
だけど、どこか乾いていて、諦めたようだ。
「俺が異端だとそう思う奴らにとっては、俺が息をしていること自体が不安なんだ」
「そんなこと——」
「ある」
淡々とした声音。
長い年月の中で、何度も何度も人の残酷さを見てきた者の声だった。
「神は沈黙している。
それなのに人間は勝手に“神意”を語る。
自分に都合よく。
……止める方法なんて、最初から無い」
言葉が出なかった。
彼の言うことは正しい。
ここで言われる“神意”は、もはや神の意志ではない。
歪められ、利用され、“信仰”と称して暴力の口実にされている。
(こんな狂気に満ちた場所で……どうすれば彼を救える?)
気付けば私は、紙面ではなくハルの横顔ばかり見ていた。
彼はいつも通りの無関心を装っていたけれど、その瞳の奥には痛みがうっすらと滲んでいる。
――こんな時、ノアならどうする?
彼ならどうやってこの窮地を脱する?
分からない。
だけども記憶の中の彼はいつも私の味方でいてくれた。
——今の私にできるのは、ハルの味方で居続けることだけ。
その考えに行き着いた瞬間だった。
ふいに、ハルの顔が近づいた。
呼吸の熱が触れ合うほんの数センチの距離。
(え、これって……!)
「ま、待って! だ、ダメっ!」
私は反射的に手を伸ばし、彼の唇の前でぴたりと押し留めた。
ハルはつまらなそうに眉をひそめる。
「何がだ?」
「こういうのは……その……“そういう人”とするものだから……!」
「この前は止めなかっただろ」
「あの時は……その、余裕が無かったから……」
私が慌てる様子を、ハルは理解出来ないものを見るような目で見つめてくる。
「ふーん」
こんな時なのに、ハルは落ち着いている。
今の彼はいつ"罰"を受けさせられるか分からなのに……。
「もっとちゃんと考えてよ」
「考えても意味は無い。何も変わらないからな。
それより残された時間を楽しむ方がよっぽど有意義だ」
「楽しむって……」
巫山戯るハルに小言を言おうとした時、
彼の手が震えているのが見えた。
「ハル……」
私の目線に気付いた彼は自嘲するように口角を上げる。
「情けない…だろう?
今まで散々、浄化される罪の無い人々の叫びを無視してきた。
少し前まで自分も早くそうなりたいと、願っていた。
なのに……」
ハルの声が震える。
「生きていたいと……そう願ってしまう」
その言葉は私がずっと聞きたかった答えだ。
涙が出るほど嬉しくて、でも胸が苦しくなるほど切なかった。
——生きることは、ときに死ぬよりもずっと苦しい。
彼はずっと、その苦しさに身を焼かれてきたのだ。
私はそっと、彼の震える手を握った。
「大丈夫。私が何とかする」
根拠なんてない。
方法も見つかっていない。
でも、それでも——彼を守りたいと強く思った。
「だから、諦めないで」
ここで立ち止まってはいけない。
動かなければ、彼をまた失ってしまう。
私はハルの金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
最初は怖かった、感情も光も無かった瞳が確かに揺らぐ。
(守りたい。この人を——絶対に。)
その想いが胸の奥で静かに燃え上がった。




