追憶
しばらく、風の音だけが私たちの間を満たしていた。
ハルが走って連れてきたのは、ハニー宮の庭園だった。
水晶宮と同じく、ハニー宮は王宮の一角にありながら、神殿と細い渡り廊下で繋がる特異な場所だ。
ゆえに外周を警備するのは王宮兵で、神殿内の騒ぎには関わらない。私たちが駆け込んでも、兵士たちは短く視線を向けただけで、何事もないように持ち場へと戻っていった。
庭園には夏の日差しが降り注ぐ。花々の香り、葉の裏を震わせる柔らかな風。そのすべてが、さっきまで胸を締め付けていた重苦しさとは無縁のようで、かえって胸の奥がきゅっと痛む。
あと少しでエルダールへ逃れてきて四年になる。なのに私は、いまだ何も変わっていない。そう思うと、また目の前が少し霞んだ。
ぼんやりと遠くを眺めていたその時だった。
肩に、ふわりと温かな重みが乗しかかった。
驚いて横を見ると、ハルが静かにもたれかかってきている。そうしたことの意味を考えるより先に、初めて見る彼のつむじがやけに無防備で──なぜだか、指先がそっと触れていた。
白銀の髪は光を受けて淡く輝き、さらりと指の間をすり抜ける。まるで大きな白虎にでも寄り添われているかのような、不思議な安心感があった。
「ありがとう、ハル」
小さく呟くと、彼は言葉もなく、こくりとうなずいた。
また、沈黙。
けれど、先ほどまでの苦しい沈黙とは違う。どこか、静かに息を吸い直せる穏やかさを含んだ沈黙だった。
しかし、その穏やかさを破ったのは風に溶けてしまいそうなほど、か細いハルの声だった。
「……俺も昔、生贄だった」
「え……」
あまりにも唐突で、思わずハルへ向き直った拍子に、彼の額と私の額がぶつかった。
「いっ……」
「ご、ごめんなさい!」
ぶつかった痛みよりも、“生贄”という言葉の重さが胸の底へ静かに沈んでいく。
生贄……血の匂いのする、恐ろしく残酷な響きだ。
彼に過去があることは最初から感じていた。
けれど私はずっと聞く勇気が出なかった。
それを、今、彼の方から話そうとしてくれている。
「続き、聞きたい。……話してくれる?」
促すと、彼はわずかに目を伏せ、言葉を探すようにゆっくりと喉を震わせた。
「……俺が両親を亡くしたのは七歳のときだった」
「その日は家族で出かけていた。確か地方の視察の一環だったと思う。父上と母上と……護衛と。
空がやけに晴れてた。風もなくて、暑い日だった。
馬車が森に差しかかった時、いきなり……衝撃が走って、母上が俺を抱きしめた」
言葉が途切れる。
ハルの手が無意識に震えていた。
「目が覚めると、母上は俺を抱きしめたまま、冷たくなっていて、もう動かなかった。周りを見ると、すぐ側で、父上の頭に馬車か何かの木材が刺さっていた……」
声がかすれる。
私は何も言えず、ただ息を呑んだ。
「助けを呼んだ。でも、誰も来なかった。
数日かけて、何とか城に戻った俺を見て、神官たちは両親の死を神罰だと言った。
神殿の権威に疑問を持つ父上を、ずっと疎ましく思ってたんだろう。生き残った俺を……“神の意に逆らう存在”として罰するべきだって言い始めた」
「その頃から、あの女──王妃はおかしくなっていた。たった一人の息子を亡くしたんだから、無理もないのかもしれないけど……」
一度言葉を切り、苦く笑う。
「ある日、王妃に呼び出された。気付いたら捕らえられて……生贄として壇上に立たされた。今日の少女のように……。
その年も干ばつが続いててな。王族の血を捧げれば雨が降る、って」
喉の奥が凍りついた。
「でも……俺が壇上に上げられた瞬間、急に大雨が降ってきた。空は晴れてたのに。着火剤が濡れて儀式は中止となった」
この国では雨は神の喜びの涙とされているが、晴れているのに雨が降るのは神が悲しんでいると言い伝えられている。
「二度も神罰から逃れた俺は”神に選ばれた”とか何とか言って祀り上げられ、神子にされた」
ハルは静かに、淡々と話す。
けれど、その淡々さが余計に痛かった。
「王妃は今でも父上の死を受け止められず信仰にのめり込んでいる。国王は耐えられなくなって、水晶宮を作って隔離した。……お前が知りたいエルダールは、そういう国だよ」
自嘲するように笑った彼の横顔があまりに痛ましくて、私は何も考えられずに抱きしめていた。
「……辛かった、でしょう……」
私は両親を亡くしたとき、ノアがいた。ベネット侯爵夫妻も伯爵も誰かが必ず手を差し伸べてくれた。その温かさが私を繋ぎとめてくれた。
でもハルには──誰もいなかった。
親族に捕らえられ、七歳の子供が生贄として壇上に立たされた。
言葉にするのも恐ろしい孤独と恐怖を、彼は一人で抱えて生き残ったのだ。
「……なんで、こんな……」
涙がぼろぼろと勝手にこぼれる。止めようとしても止まらない。喉が締めつけられ、胸が苦しくて息がうまく吸えない。
「馬鹿か、なんでお前が泣くんだよ」
そう言って、彼が私の涙を指でそっと拭ってくれる。
その優しささえ、胸を締めつける。
私の涙は止まらずこぼれ続けるというのに、ハルはふっと──ほんとうに小さく笑った。
その笑顔は、深い闇の底に灯る微かな光のようで。
北国に春が訪れる瞬間のように、温かくて、美しかった。
「ハル……笑った」
思わず呟くと、彼は照れたように視線を落とす。
「……お前が馬鹿みたいに泣くからだ」
私は彼の手をそっと握った。
「ここまで……ほんとによく、頑張ったね。
生き抜いて……くれて、ありがとう。
ハルは……笑っていいんだよ。
好きに、生きていいんだよ」
その言葉に、ハルは驚いたように目を見開いた。
「……そんなこと、言ってくれたのはお前だけだ」
「これから、何回でも言うよ」
「……変なやつ」
「また言う」
私たちがいるのは、間違いなく地獄だ。
過去を語り合ったところで、現実が変わるわけでもない。
それでも──
彼となら、乗り越えられる気がした。
彼と乗り越えたいと思った。
神殿編は残り8話程を予定しております。
少ししんどいお話が続きますが、よろしくお願いいたします!




