狂信
以前に比べれば“浄化”が行われることは減っていた。
それでも、神殿の空気は日を追うごとに濁り、重たく淀んでいくのを感じていた。
そして、もうひとつ変化したものがある。食事だ。
嫌がらせなのだろうか、以前より明らかに質素になっている。
夕食を運んできたサーシャに、私はつい愚痴をこぼしてしまった。
「神官たちって陰湿よね。食事を減らすなら、直接言えばいいのに」
固い黒パンをちぎりながら言うと、サーシャは気まずそうに視線を伏せた。
「実は……神官の指示ではございません。今年は雨季に雨が降らず、春からずっと日照りが続き……干ばつが起きています。神殿でも食糧難になりつつあるのです」
その言葉に、胸が沈んだ。
つまり、今の食事が出るだけでもありがたいということだ。
神殿にいると季節感や天気は分かりにくい。
ここ数ヶ月は外に出ることもほとんどなかった。
けれど干ばつとなれば、多くの民が苦しんでいるはずだ。
何も知らず、軽々しく文句を言ってしまった自分が恥ずかしい。
「そう……だったのね。ごめんなさい」
「いえ、セラ様が外の事情をご存じなくても仕方ありません。民との関わりもほとんどありませんし」
「干ばつなら、民の負担も大きいでしょう。サーシャの家族は?」
「今は何とかやっていますが……食糧難は深刻です」
個人でどうにかできる問題ではない。
領主や国が動かなければ、このままでは大規模な飢饉になる。
(私にできることは……祈るだけ、なの?)
明日、図書館に行けたらハルに相談してみよう。そう思いながら眠りについた。
――――――――――――
翌日、朝の祈りを終えてから、ふと外に目を向けると、神殿につながる中庭にはいつもより多くの信者の列ができていた。
これも干ばつの影響なのだろう。
信者たちは目を伏せ、同じ言葉を繰り返す。
「光冠の神ルクシオンに、純白の魂を――」
その声は美しく整っているのに、どこか不気味だ。
しばらくすると、神官長や大神官らが神殿の中央広場に立ち、声を張り上げた。
「神は、我らを見放された!」
「神が何も語らぬのは、我らの信仰が足りぬからだ!」
どうやら干ばつが続くことに加えて、近頃神託が途絶えたことを理由に信者へ危機を煽っているようだった。
ざわめく群衆。
誰一人として、その言葉を疑おうとしない。
その場を立ち去ろうとした時、とんでもない発言が聞こえてきた。
「――だからこそ、再び“生贄の儀”を行うのだ!」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
息が止まる。
生贄って…歴代神子の記録に書いてあった人を生きたまま焼くあの忌々しい儀式を?
広場に歓声が湧き、壇上に引き出されたのは、まだ十歳にも満たない少女だった。
怯えながらも、どこか夢見るように笑っている。
「神に会えるんでしょう? 怖くないわ……」
その笑顔が、あまりに純粋で痛かった。
「やめて!」
私は気づけば駆け寄って叫んでいた。
周囲の空気が凍る。
神殿では“止める”という行為こそが最大の罪。
秩序を乱す。それは神の意志に逆らうことだからだ。
「セラ、やめろ」
そこにやって来たハルが私の腕を掴む。
だが彼の声も、わずかに震えていた。
「あなたも、見過ごすの?」
私の言葉に、ハルの眉が動く。
沈黙が、長く、重く伸びたあと――
ハルは壇上に歩み出た。
群衆の前に立ち、冷たい声で言い放つ。
「……もう、こんな茶番はたくさんだ」
「ハ、ハルシオン様……?」
神官長が顔を引きつらせる。
だが、ハルの瞳は静かだった。
「ルクシオンは秩序を愛する。
だがそれは、人を焼くことじゃない。
祈りを血に染めることでもない……」
その声が響いた瞬間――人々の顔色が変わった。
「神子が……神子が神に背いた!」
「異端だ!」「不浄だ!」
次の瞬間、群衆が雪崩のように押し寄せた。
信仰に取り付かれた目。
正義を名乗る狂気。
誰かが壇上につけた火があっという間に燃え広がる。
何が起きているのか理解できなかった。
心のどこかで、信者達も神殿のやり方に不満を持っていると思っていた。
誰かにこの恐怖を止めて欲しいと願っていると……。
呆然と立ち尽くす私の腕をハルが掴む。
「走れ!」
「でも!あの子が!」
ハルに手を引かれながら振り返ると少女の白い衣の裾が、炎に包まれていく。
その光景があの日の母と重なる。
この場所は地獄だ。
あの夜の森と変わらない。
人の命がいとも簡単に無くなる。
そして私は……また、何も守れない。
何かが折れる音がする。
胸の辺りに冷水が流れ込むように、心が冷えていく。
視界が色を失い、世界が遠ざかる。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
意識が遠のく。頭が白む。
息が…吸えない………。
「セラ!!!落ち着け!!おい…」
ハルの声が遠くなる。
苦…し…い……。
その時――
ふいに、唇に温かなものが触れた。
驚愕に、呼吸が止まる。
唇が離れ、代わりにハルの腕が私を包んだ。
すると、何故か息が戻り、世界が再び輪郭を取り戻す。
「……俺と一緒に、ゆっくり息しろ」
すー……はぁ……
彼の呼吸に合わせて呼吸するたび、胸の苦しさが少しずつ引いていった。
「落ち着いたか?」
耳元で囁く声が、ひどく優しい。
いつからだろう。
この声が怖いと感じなくなったのは…。
私が静かに頷くと、ハルはホッとしたように息をつく。
「よかった」
「ごめん…なさい……」
あぁ、私はまた、誰かに助けられてばかりだ。
考え無しに叫んで、突っ込んで。
結局、何も変えられていないじゃない。
これじゃ偽善者と言われても仕方ない。
おまけにハルを言葉で脅して、巻き込んで…。
また彼を危険に晒す…。
「私、何も変わってない……」
変わると決めたはずなのに。
そんな私を包むように、低い声が落ちてきた。
「……俺は、お前に救われた」
「あのままなら、生きたまま死んでいた。
あんたは無力なんかじゃない」
その言葉は、壊れかけた私の心をそっと抱きしめた。
だけど、現状は何も変わっていない。
何とかしないと……。
このままじゃ駄目だ。




