光が戻る朝
どれほどの時が経ったのか、もう分からなかった。
太陽の光も、時の流れを告げる鐘の音も、この石牢には届かない。
深い水底のように、昼も夜も曖昧で、意識がぼんやりと浮き沈みを繰り返すばかりだった。
喉は焼けつくように乾き、唇はひび割れ、滲んだ血が鉄の匂いを漂わせる。
時折雨漏りのようにポツリポツリと落ちる水滴を頼りにどうにか命を繋いでいた。
身体を動かすたび、顎の骨が軋むほど疲労が重い。私は壁に背をあずけ、ただ浅い呼吸を繰り返していた。
隣で、ハルの息がゆっくりと、しかし確実に弱っていくのを感じる。
暗闇に慣れた目でも彼の輪郭はぼやけ、時折かすかに揺れる肩が、かえって不安を煽った。
「……ハル?」
名を呼んだ声はひどくかすれていた。返答はない。
どれほど不機嫌でも、淡々とした短い答えが返ってきたのに——今は沈黙だけが落ちる。
胸がきゅっと縮んで、私は震える手で彼の肩に触れた。冷たい。まるで氷に触れたようだった。
「ハル、お願い……ねぇ、起きて……!」
肩を揺すり続けたあと、彼の唇がようやくほんの僅かに動いた。
「……うるさい…な」
そのかすれきった声を聞いた瞬間、安堵で涙がこぼれそうになった。
「生きてる……よかった……」
「死ぬほどの価値もないだけだ」
彼はいつもの皮肉を言おうとしたのか、かすかに口の端を持ち上げた。
だがその笑みは弱々しすぎて、見ているだけで胸が痛んだ。
「ねえ……どうしてそんなこと言うの?」
問いかけると、ハルは薄闇の中でゆっくり目を閉じ、冷たく囁いた。
「“神に選ばれた”なんて、ただの呪いだ。
俺が死なないのは奇跡じゃない。神が俺を殺す気がないだけだ」
その声には怒りも涙もなかった。
ただ、自分への期待も希望も捨て切った者だけが持つ静かな諦めがあった。
私は震える指先で、彼の手をそっと握った。
骨張った、驚くほど冷たい手。
生きているのに、死の影がぴったりと張りついているような温度だった。
「……死にたいなんて、言わないで」
「どうして?」
「だって……あなたがいなくなったら、私……本当に独りになっちゃう」
その言葉に、ハルのまぶたがわずかに揺れた。
彼はゆっくりと私の手を見る。小さく、細く息を吐いたあと、ぽつりと呟く。
「……変なやつ」
「またそれ?」
わざと軽く返すと、彼はほんの少しだけ肩を揺らした。
「ああ。俺に“生きていてほしい”なんて言う奴は、お前くらいだ。
これまで、人間扱いなんてされたことなかった」
その声はかすれていたが、自嘲ではなく……寂しさが滲んでいた。
「俺だって、本当は——」
言いかけて、喉が詰まったように息が途切れる。
闇に沈むその横顔は、誰にも触れられず凍てついた少年のようだった。
「……誰かに、必要とされたいと思う時も……ある……」
胸の奥が痛いほど熱くなる。
その一言が、この牢に差す唯一の光のように感じられた。
「ハル……生きよう。私と一緒に」
「……誰がお前なんかと」
「そういうのももう慣れたわ」
不思議と涙は出なかった。
苦しくて、怖くて、でもそれ以上に——彼が“生きたい”と願っていることが嬉しかった。
その時、重たい鉄扉の向こうから足音が近づいてくる。
ずしん、ずしんと、石床に響く音が現実へ引き戻す。
錠が外され、鉄が軋む低い音のあと、
暗闇を切り裂くように一筋の光が差し込んだ。
光は痛いほどまぶしく、私は思わず目を閉じる。
背中に触れていた石壁が温度を持ち、世界がゆっくり色づき始める。
その光の中、ハルは細めた目で天井を見上げた。
「……まぶしいな」
「ええ。……やっと、朝が来たんです」
扉が大きく開かれる。
五日の終わり——そして、罰が終わった証だった。
立ち上がろうとした私は、脱力しきった足に力が入らず、ふらついた。
倒れそうになった瞬間、誰かの腕が私の腰を支える。
ハルだった。
その手は氷のように冷たく、しかし確かに“生きている”温度を持っていた。
「立てるか」
短い問いかけが、どんな祈りよりも優しく響く。
私はかすかに頷くと、彼は何も言わず寄り添って歩き出した。
牢の外、薄暗い回廊の先には初夏の光が溢れていた。
外気が流れ込み、頬を撫でる。
ただ風に触れるだけで涙が出そうだった。
——これからは、私が彼を支えたい。
その想いがゆっくりと胸の奥に灯る。
五日ぶりの光は、ただ罰の終わりではなく、
彼が“希望”を初めて口にした朝でもあった。




