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恋慕

 その日は国境付近の宿場町に着いた。白石造りの建物が並び、窓辺には青いガラス細工のランプが灯っている。

 宿の主は神官でもあるらしく、深い祈りのような笑みを浮かべて出迎えた。


「部屋は一つしか空いておりませんが……」

「構わん」

 伯爵がそう言って部屋の鍵を受け取る。

 

 部屋に着くなり伯爵は鍵をノアに手渡した。

 「俺はウィリアムと馬車で寝る。お前たちは部屋を使え。……長旅の疲れを癒やしておけ」

 

 そう言い残すと軽く手を振り、歩いて行った。


 部屋に入ると、外とは打って変わって暖かな空気に包まれた。白い壁、銀糸の刺繍の入ったシーツ、窓辺に置かれた一輪の花。エリシアは思わず息を呑んだ。

 ——これが、異国。


  ノアはお湯を頼みに出ていき、ほどなくして戻ってきた。

「先にどうぞ」

「あ、はい……ありがとうございます」


 促されるままに湯を借りたが、胸の鼓動は妙に早かった。

 熱い湯で頬を冷ますように手をあてる。

 鏡に映る自分の顔は、どこか別人のようだった。


 心が落ち着かないまま、焦って部屋に戻ると、ノアがクスッと笑った。

「髪がびしょ濡れです」

 そう言って、私を椅子に座らせ、そっと髪を拭ってくれた。

 指先が髪をすくうたび、胸がふわふわする。


「ありがとう……ございます」

「妹たちに、よくこうして頼まれました」

 

 その“妹”という言葉に、何故か胸の奥が少し沈んだのも束の間、今度はノアが湯浴みの為に部屋を出る。

 

 静寂の中で、水音だけが遠く響いた。

 湯をすくう音、衣擦れ、息づかい――

 その一つ一つが、まるで胸の奥を叩くように響いた。

 息を詰め、目を閉じる。

 自分の鼓動が、どうしようもなく彼の音に重なっていく。


 やがて扉が開き、濡れた髪を拭きながらノアが戻ってきた。

 シャツの襟が緩く開き、鎖骨が見えていて、見てはいけないと頭ではわかっているのに、気になってしまう。


 ノアが少し困ったように笑う。

「……見苦しい姿で、すみません」

 

「そ、そんなこと……」

 言葉が震え、喉が熱くなる。

 

 彼が首を傾げて、やわらかく笑う。

「もしかして、緊張されています?」

「ち、違います!」

 

 慌てて顔を逸らすと、ノアが柔らかく笑った。

 その笑顔が、いつもの優しい従者ではなく、どこか“年上の男”に見えて――心がざわめいた。


 

 夜は静かに更けていく。

 小さなベッドが一つ。

 ノアがそれを見るなり、軽く眉を寄せた。


「……ベッドは一つしかありませんね。私は床で大丈夫です」

「そんな……私が床に——」

「皇女様が、床で寝るなどあり得ません」


「……今は、皇女じゃありません」

 その言葉に、ノアが一瞬黙る。

 

 静かに息を吐き、少し視線を伏せた。

「……私は床で寝ます」

 

「そんな、だめです! 私が床で――」

「いえ、皇……いえ、エリスは体を休めてください」


 どちらも譲らず、とうとうノアが困ったように笑った。


「……では、端と端。背中合わせで寝る、というのはどうでしょう」

「……それなら」


 灯を落とすと、部屋は淡い月光に包まれた。

 隣からノアの呼吸が聞こえる。

 距離はほんの数十センチ。

 けれど、その近さが永遠のように思えた。


「ノア、起きていますか?」

「……はい」

「眠れなくて……」

「私もです」


 言葉が途切れるたびに、鼓動がうるさく響く。


「明日には…エルダールの王都ですものね。何だか変な気がします」

「長いようであっという間でした……」


 これまで過ごしたどの夜よりも静かで、けれどずっと温かい。その静寂の中で、ふたりの心音が溶け合っていくようだった。


「不安…ですか?」

「……分かりません。ただ……少し怖いです」

「私に……何か出来ることはありませんか?」


 その声があまりに優しくて、胸の奥が少し痛んだ。


 私は思わず彼の方を向いた。

 大きくて、けれどまだどこか幼い背中。

 これまで私を守り続けてきた、その温もり。

 

 「ノア……エリーと呼んでくれませんか?」

 

 ノアがゆっくりとこちらを向いた。

 瞳の奥に、淡い光が宿っている。

 

 静かな沈黙。

 そして、少しかすれた低い声で。

 「……エリー」

 

 その声が、胸の奥を優しく満たした。


「ノア」

「エリー」

 互いに名を呼び合うたび、何かが崩れていく。

 理性も、掟も、すべて。


 この人が愛しい。

 触れたい。

 抱きしめたい。


 だが、鉄の掟が脳裏を過ぎる。

 アルヴェイン公爵家の者に恋をしてはいけない。

 皇家とアルヴェイン家の間で結ばれた鉄の掟を。


 少し手を伸ばせば触れられる距離なのに、永遠よりも遠く感じた。


 その時、沈黙の中でノアの手がかすかに動いた。

 指先が、私の指に触れる。

 その瞬間に世界が音を失った。


 私はそっと、その手を握り返した。


「ありがとうございます。貴方がいてくれて……本当に良かった……」

 

「私もです」


 それ以上、何も言えなかった。

 言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまう気がした。

 ふたりは手を繋いだまま、静かに眠りへ落ちていった。


 暖炉の火が、最後の炎を揺らす。

 外では、白い雪が降り始めていた。

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