空虚
side ノア
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北方諸国の外交使節団を迎える日。
警備責任者として様子を確認しに来たノアは、淡々と自分の責務を果たしていた。
使節団を歓迎する昼餐会はエリシアが主催すると聞いている。
今、自分が彼女のためにできるのは、ただこの場を安全に保つことだけだ。
そのことに無力感を感じながらも、一切の隙が無いように鋭い眼差しで現場を見渡していた。
遠くで出迎えの歓声が上がる。
その先頭に立つのは、エルダールの王太子――ハルだ。
白銀の髪が光を弾き、金の瞳が穏やかに細められる。
神の化身とまで称されるその容貌は誇張ではない。
人々は自然と道を開け、彼に視線を奪われる。
将来、彼女の隣に立つ可能性が一番高い人物。
――本当は、自分が立ちたい場所。
そんなハルの視線がゆるやかに動く。
その先に現れたのはエリシアだ。
この季節らしい黄緑と白を基調としたドレスに身を包み、皇女として完璧な微笑を浮かべている。
「……エリシア」
ハルが彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。
いつもの躊躇いのない呼び捨てだ。
「相変わらず綺麗だな」
その甘い言葉に、エリシアはクスッと笑う。
「ハルも変わらないですね」
ノアは目を逸らした。
見てはいけない。
警備に集中しなければ。
だが、耳が勝手に彼女の声を拾い上げてしまう。
彼女の明るい笑い声。
――あの声を、自分は最近聞いていない。
胸の奥に、棘が突き刺さったような痛みが走る。
式典は滞りなく進み、昼の祝宴へと移る。
ノアは庭園の隅に立ち、会場全体を見渡す。
エリシアは休みなく会場内を移動している。
使節団の一人一人に挨拶し、参加した帝国貴族とも会話を交わし、主催側として完璧に立ち回る。
ふと、自分に近付く気配を感じて目を向けると、ハルがこちらに向かって歩いてきた。
「久しぶりだな」
「その節はご迷惑をおかけしました」
手紙のやり取りはしていたが、旧男爵領で倒れてから、ハルと会うのは初めてだった。
「相変わらず、堅苦しいな」
わずかに口角が上がる。
「俺はもう友人のつもりだが?」
「一国の王太子にそう言っていただけるとは、光栄です」
「堅いな」
ハルは肩をすくめる。
その仕草さえ絵になるのがこの男だった。
「なあ、ノア」
名を呼ばれ、視線を合わせる。
「エリシアと何かあったのか?」
その言葉に胸を突かれたような衝撃が走る。
「……私は側近から外されました」
真面目に答えなくても良かったのかもしれない。
けれど、何故かこの男には素直に話してしまった。
「それで、何も反論せずにエリシアのそばを離れたのか?」
ハルの瞳が、わずかに細まる。
「殿下と陛下が決められたことですから」
沈黙が落ちる。
楽団の音色が遠く響いているのに、この一角だけが静まり返ったようだった。
「側近としてじゃなくても、そばにいて支えることはできるだろう?」
「そう、ですね……」
ハルの指摘にノアはぐうの音も出なかった。
その通りだからだ。
だが、エリシアはあの夜からノアと距離を置いている。
話をするどころか、目を合わせてもくれない。
「お前がそんな調子なら、エリシアをエルダールに連れて帰るぞ」
その一言に空気が凍る。
「陛下から婚約の打診を受けた」
あまりにさらりとした言い方だった。
「俺は受けるつもりだ。
彼女の意志が最優先だけどな」
ノアの指先が冷える。
喉の奥が締まって呼吸の仕方が分からなくなるほどに苦しいのに、何も言い返せなかった。
ハルはじっとノアを見る。
「エリシアは周りが思っているよりも強くない。
何でも一人で抱え込む。
どうせお前を側近から外したのも、お前を思ってのことだろう」
「なら、あいつが例え皇位継承者じゃなくても、一番の味方だって、いつでもそばに居るから大丈夫だって言ってやらなきゃいけなかったんじゃないのか?」
ハルの声は穏やかだ。
だがその奥には怒りが含まれている。
「俺が身を引いたのは、彼女の選択を尊重したからだ」
金の瞳が鋭く光る。
「だが、エリシアが帝国で辛い思いをしているなら。
俺は遠慮なく奪う」
その覚悟は、本気だった。
喉の奥に言葉が詰まる。
「……私は」
言いかけて、止まる。
資格がない。
側近を外された時点で、察するべきだった。
彼女が無理をしているのだと。
それなのに、気付けなかった。
そんな自分に、彼女のそばにいたいと願うことが許されるのか。
「アルヴェイン公爵、レオン殿下がお呼びです」
近衛の言葉にハッとする。
警備体制を確認しに来ただけで、昼からはレオンとの打ち合わせが入っていた。
「失礼します」
ノアはハルに一礼すると、その場を後にした。
だが、胸に渦巻いた感情は消えることが無かった。
―――――――――――
その日も、その翌日も。
ノアは執務を終えた後、皇太子宮を訪れていた。
レオンとの打ち合わせを終え、執務室を出る頃には、月が高く昇っている。
静まり返った中庭。
月光に照らされた石畳は、昼間よりも白く冷たい。
ふと、テラスの方に灯りが見えた。
――この時間に?
不審、というより違和感だった。
足は自然とそちらへ向く。
無意識に音を殺すのは、長年の癖だった。
木立の影に身を滑らせる。
そして、視界が開けた瞬間。
足が止まった。
白銀の髪が月光に煌めき、その腕の中に、紺色のドレスを着たエリシアが身を預けている。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
思考が、止まる。
いや、止まった方が楽だった。
脳裏に浮かぶのはよりにもよって――二ヶ月前の光景だ。
エスコートをしたあのティーパーティーの帰り道。
馬車の中で視線が絡み、互いに言葉を飲み込んだ距離。
触れれば壊れそうなほど近くて、けれど確かに通じ合っていた空気。
あれは、錯覚だったのか。
喉の奥が強く締め付けられるように痛んだ。
領地から戻ってから、慣れないこともした。
自分の色の贈り物をし、遠回しでも想いが伝わるようにと、不器用なりに足掻いた。
掟を解くためには、まずはエリシアの心を射止めなければならなかった。
――だが、それ以上に。
ただ、彼女に自分を選んでほしかった。
それなのに。
いつからか、エリシアは目を逸らすようになった。
声をかければ、どこか一歩引いた笑み。
触れれば壊れそうだった距離は、今や埋めようのない溝に変わった。
理由も分からないまま、ただ遠ざけられた。
それでも。
どこかで信じていた。
嫌われたわけではない、と。
だが今、目の前にある光景は。
言い訳の余地もないほど、明確だ。
ハルの胸元に額を預けるエリシア。
拒まない腕。
むしろ、自ら重心を委ねているように見える。
その光景に、心臓が乱暴に打ち付け、胸が鋭く痛んだ。
嫉妬か。
いや、それだけではない。
理解が追いつかない。
ついこの前まで、確かに隣にいたはずなのに。
互いに同じ方向を見ていると信じていたのに。
自分だけが、取り残されていたのか。
(……全て私の思い違いだったのかもしれない)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
抗うことすら滑稽に思えるほど、二人は美しい。
王太子と皇女。
並ぶべき場所に、並ぶべき二人。
そこに、自分が割って入る余地など、最初からなかったのではないか。
喉の奥が焼けるように痛かった。
叫びたい衝動を、歯を食いしばって押し殺す。
今ここで飛び出していけば、何かが壊れる。
自分の立場も、彼女の立場も。
――だから、何も出来ない。
何も、してはいけない。
足がふらつく。
視界が揺れる。
それでも無理やり身体を反転させる。
一歩。
踏み出した瞬間、胸の奥が空洞になったようだった。
感情が、どこかへ抜け落ちていく。
怒りも、嫉妬も、悲しみもない。
ただ、空虚だけが残る。
(……私は、何をしていたんだろう)
彼女を守ると誓いながら。
隣にいると決めながら。
気付けば、何もできていない。
それどころか。
彼女の一番近い場所は、もう別の男の腕の中だ。
ノアの中で何かが、静かにひび割れていく音がした。




