もう逃げない
夜の庭園は、昼とはまるで別の顔をしている。
噴水の水音が、低く柔らかく響いている。
初夏の風が、昼間の熱を少しだけ奪っていく。
私は皇太子宮の園庭が見えるテラスにささやかな酒宴の席を設けた。
本来なら皇女である私が他国の王太子と二人で夜に会うなど、褒められたことではない。
だけど、それが婚約者候補筆頭の相手となれば誰も何も言わない。
エルダールの聖女"セラ"として崇められた私が、帝国唯一の直系の皇女として帰還した際、帝国の人々は歓迎したと共に、物語の中で恋仲であった王太子と結ばれない運命を哀れんだ。
その悲恋を模したオペラが帝国では流行っているくらいだ。
それが、レオンの帰還によりまた風向きが変わったのだ。
加えてタイミング良くハルが帝国を訪ねて来た。
皇宮勤めの侍女や使用人たちは浮き足立っていた。
「エリシア様、テラスに席を設けるのはどうですか?」
「アロマを焚けばロマンチックですわ!」
何度も凝った準備はしなくしていいと伝えたのに、全く伝わっていないのか、もしくは私が照れ隠しをしていると勘違いされたのか。
出来上がった席は、完全に恋人がいい雰囲気になるためのものだった。
更に準備されたドレスはシャンパンゴールド。
ハルの瞳の色だ。
それを見て小さくため息をついた私に、使用人の一人が声をかける。
「エリシア様、ドレスを変えられますか?」
馴染みのある声に振り向けば、声の主はサーシャだった。
「そうね。
皇女が異性と二人で会う時に、その男性を象徴する色のドレスを着るのはあまり褒められたものでは無いわ」
私の声に、侍女達が気まずそうに視線を伏せる。
「あなた達が良かれと思って準備してくれたのは分かっているわ。
気持ちは受け取っておくわね」
その後の仕上げはサーシャにお願いした。
彼女は落ち着いた紺のドレスを準備してくれ、それに合うように落ち着いた雰囲気の髪型にセットしてくれる。
「この髪型、セラの頃によくしてくれていたわね」
「はい!エリシア様のお顔によく似合います!」
髪型のせいだろうか。
サーシャとなんでも気兼ねなく話をできていた頃を思い出す。
「ねぇ、サーシャ。
皇女とメイドではなくて、エルダールの頃からの友人として、話をしてもいいかしら」
「はい!私はいつでもウェルカムです!」
彼女の変わらない親しみやすさに私は思わず頬を緩める。
「最近の私ってそんなに疲れて見える?
ハルにそう言われたんだけど……」
「女性にそんなことを言うなんて!
相変わらず女心がわかっていないですね!ハルシオン殿下は!」
神殿の時からの付き合いだからか、彼女はハルに手厳しい。
そしてハルもサーシャを咎めなかった。
「ですが、確かに。
最近のエリシア様はいつも苦しそうです」
上手く振舞っているつもりだったけど、やっぱり親しい者には隠しきれていないようだ。
「そう……」
「エリシア様はアルヴェイン公爵がお好きなのですよね?」
サーシャから出たノアの名前に心臓がドクンと鳴る。
「え!?」
「見ていれば分かりますよ。
アルヴェイン公爵様のことが大好きなんだって」
頬から耳まで熱を持つのを感じる。
「そんなに分かりやすい?」
「そうですね!
公爵様の前では、皇女殿下というより……普通のご令嬢みたいです」
「……それは未熟という意味?」
「いいえ。
とても可愛らしい、という意味です」
ストレートな言葉に恥ずかしくなって視線を伏せる。
そんな私の姿をサーシャは微笑ましそうに笑った。
「差し出がましいことかもしれませんが、恋のアドバイスしてもいいですか?」
「ええ。よろしくお願いします」
「ルーナさんから公爵家と皇女の掟の話は聞きました。
私、王侯貴族のことはよく分かりません。
ですが、このままだとエリシア様は誰とも幸せになれないと思うんです……」
「えっと、その……。
どうせ距離を置かれるのでしたら!
当たって砕けろ精神でいかれてはどうですか?」
「当たって砕けろ?」
「思い切って、公爵様に思いを伝えてしまうのです!
想いにけじめをつけられれば、前を向けます」
サーシャの提言に私は目を丸くした。
今までノアに気持ちを伝えようと思ったことなど無かったからだ。
「もし、駄目だとしても……帝国には殿方が山ほどおります!
それに、ハルシオン殿下もいらっしゃいますし!」
その言葉に私は思わず笑ってしまう。
「できました!
やっぱりエリシア様はお美しいですね」
「ありがとう、サーシャ」
準備を終えた頃には、ハルが皇太子宮を訪ねてきた。
準備された席を見たハルは、ゆるく笑った。
「まるで恋人同士の逢瀬だな」
「侍女たちが勘違いしてしまって……。
彼女らの努力を無下にするわけにもいかないから」
「皇女様も大変だな」
ハルはそう言いながら席に腰をかけた。
しばらくは、この半年間の出来事や昔の思い出話に花を咲かせた。
まるでエルダールで過ごしていた日々に戻ったかのように、お互いの肩書きも背負っているものも無くなったかのような時間は居心地がよかった。
そして、話が一段落した時、
「皇帝陛下から話を受けた」
ハルが神妙な顔つきで切り出した。
月明かりが、彼の横顔を縁取る。
「……何の話かしら」
「お前の婚約者の話だよ」
あまりにも唐突な話に指先が固まる。
「俺に打診があった」
冗談めいていない声。
本当に皇帝が打診したのであろう。
「正式に縁を深める形でどうかと」
皇帝はきっと、私を思いやり、一番仲が良く、かつて恋仲とまで言われた相手を孫娘の結婚相手にしようと動いてくれたのだろう。
「……ごめんなさい」
気づけば、そう言っていた。
視線が落ちる。
「何に対して謝ってる?」
「またハルを巻き込んで」
言葉が苦い。
「私は――」
ノアの名は、出せなかった。
けれど、ハルは小さく笑った。
「エリシア」
名前を呼ぶ声音が、優しい。
「お前がノア以外の男の元へ行くくらいなら、俺はいつでも受け入れる」
軽い口調なのに、そこに揺らぎはない。
「それは」
私は俯く。
ハルは私を好いてくれている。
友人としてではなく、異性として。
それでも、私がノアへの気持ちを自覚したあの日から距離を保ち、決して踏み込まず、笑ってくれていた。
その優しさに甘えるのは、卑怯だ。
「ハルを利用しているみたいだから嫌だ」
ハルは、肩をすくめた。
「利用? 違うな」
彼は椅子から立ち上がると、私のそばに近寄った。
月明かりを背負ったその姿は、あまりにも美しい。
「婚約者になれば」
金の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「一生かけてお前を口説く時間がもらえる」
その言葉に鼓動が早くなる。
「悪くない取引だろ?」
まるで冗談を言うような口調だけど、これはハルの本気の告白だと、私には分かった。
「俺は諦めてない」
「でもな」
声が、少しだけ低くなる。
「口説くなら、真っ白なところから始めたい」
夜風が、彼の白銀の髪を揺らす。
「だから、あいつへの気持ちをちゃんと整理してこい」
金の瞳が、揺るがない。
「それに俺は中途半端な勝ち方はしたくない」
「……ずるいこと言わないで」
声が震える。
「ハルはいつも優しすぎる」
「優しくなんかない。
ただ、お前のことが好きなだけだ」
その瞬間、張り詰めていた糸が、切れた。
視界が滲んで肩が震える。
泣くつもりなど、なかったのに。
ハルは小さく息を吐いて、私を引き寄せた。
壊れ物に触れるような腕だった。
「こうすれば、泣き顔は見えないから」
涙が一粒、頬を伝う。
「よく頑張ったな」
耳元の低い声に、嗚咽が漏れる。
「今は泣いていい」
抱き締める腕に、力がこもる。
月が、静かに見下ろしている。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、覚悟が落ちる。
「……ちゃんと、向き合う」
声はまだ少し震えている。
だけど、ノアと逃げずに話がしたい。
ハルは満足そうに笑った。
「それでこそ」
金の瞳が、眩しいほどに柔らかい。
「俺が好きになったエリシアだ」
初夏の夜風が頬を撫でる。
もう目を逸らさない。
そう胸の奥で静かに決めた。




