焚き火の熱
逃亡を始めて数日。
人目を避けるため、街道ではなく山道を、夜を中心に進む日々が続いていた。
けれど、いくら迂回を重ねても、どうしても避けられない場所がある。
――領地ごとに設けられた関所だ。
日が西に傾き、木々の合間から赤く沈みゆく夕陽がかすかに差し込み始めた頃、街道の先に石造りの門が見えた。
黒い鎧をまとった兵が数名、通行人をひとりずつ調べている。
旗に刻まれた紋章は帝国のもの——つまり、まだ領内だ。
「ここを抜ければ、しばらく検問はないはずです」
御者台のウィリアムが低く言った。
ベネット伯爵はトランクから書簡を取り出し、封蝋を確かめた。
「通行証は用意してある。だが、油断はするな。二人とも顔が目立つからな。知られていないとはいえ、あまり見られすぎるな」
「了解です、伯爵」
ノアが短く答えた。その瞳には、先程までとは違う張り詰めた光が宿っている。
馬車がゆっくりと列に加わる。前の商人が荷台を調べられている間、時間がやけに長く感じられた。
胸の鼓動が速くなる。
ノアがわずかに身を寄せて、低く囁いた。
「大丈夫です。私が話しますので貴女はそのままで」
ノアの言葉に私は頷き、フードを深くかぶった。
やがて順番が来た。
兵が馬車の脇に立ち、槍の柄でドアを叩く。
「身分を名乗れ。どこへ向かう」
ノアが素早く前に出て、淡々と答えた。
「ベネット侯爵家の使者としてフレディ・ベネット伯爵とその従者三名、エルダール王国へ書状を届ける任を帯びております」
「書状を見せろ」
ノアが封蝋付きの書状を差し出す。
兵はそれを受け取り、蝋を確かめ、目を細めた。
「確かにベネット家の印章……だが、近ごろは反乱軍の偽造品も出回っている。中の者の顔をよく見せろ」
――まずい。
背筋がこわばる。
呼吸をするたび、胸の奥が冷えていくのが分かった。
けれど、ノアがすぐに動いた。
「お言葉ですが、伯爵は体調を崩されております。長旅で熱があり、外気を避けねばなりません。
書状と通行証は本物、これ以上の詰問はベネット侯爵への侮辱と受け止めますがよろしいでしょうか?」
その口調は完璧に“騎士”のそれだった。
威圧でも媚びでもない、理路整然とした自信。
兵が一瞬たじろぐ。
「……ふむ、確かにそんな顔だな。わかった、通れ」
槍が上げられ、道が開く。
馬車がゆっくりと進み出す。
兵士の視線を背に受けながら、私は息を詰めたまま通り過ぎた。
門を抜けた瞬間、ノアが小さく息を吐く。
「……通りましたね」
「ええ……ありがとう、ノアの演技が凄かったです」
「訓練はしてましたから。……でも、正直、心臓はまだ跳ねてます」
互いに微笑んだその瞬間、風邪のふりをして布で顔を覆っていた伯爵が低く笑う。
「おいおい、若いの、芝居は見事だったが、もう少し緊張感を持て。見張り台からまだ見えるぞ」
「はっ……!」
慌てて姿勢を正す私たちを見て、伯爵はくすりと笑った。
「まぁ、悪くなかった。初陣にしては上出来だ。
だが——これからが本番だぞ」
関所を越えたあと、馬車は細い林道へと入った。
しばらく進み、完全に日が暮れた頃、馬車を止めたベネット伯爵が低く言った。
「今夜はここで休もう。夜明け前には発つ」
最低限の食事を済ませると、伯爵とウィリアムは明日以降の道程の確認の為、馬車に戻った。
焚き火の火がぱちぱちと弾け、煙が夜気に溶けていく。
風は冷たく、草の匂いが濃く漂っていた。
少し離れたところで、水音がかすかに響いている。
「少し、顔を洗ってきます」
私がそう告げると、ノアがすぐに立ち上がった。
「夜道は危ないですから、私もご一緒します」
小さな川のほとり。
水は月光を映して銀色に揺れ、指先を浸すと息をのむほど冷たかった。
ノアは少し離れて背を向けている。それでも、彼の気配がすぐそばに感じられる。
夜の静寂が、やけに鮮やかだった。
ブラウスを脱いで晒姿になると、水をすくって首筋にかける。ひやりとした感触に思わず目を閉じる。
急いで体を拭き、ブラウスを羽織ったとき、短くなった髪が風に揺れて頬をくすぐった。
端切れで急いで身体を拭き、ブラウスを羽織った瞬間、風が通り抜け、短くなった髪が頬をくすぐる。
「……寒くないですか?」
背後から届いた声に、振り返る。
月光を映したノアの瞳が、静かに私を見つめていた。
胸がどくんと鳴り、慌てて目を逸らす。
「だ、大丈夫です。戻りますね」
焚き火のそばに戻ると、手が震えてボタンを掛け違えてしまった。
そのとき――
「少し、お手伝いしてもいいですか?」
「えっ……でも――」
言葉の途中で、そっと外套が肩にかけられた。
ノアの指先が胸元の布に触れ、ひとつ、ふたつとボタンを留めていく。
彼の指は細く、長く、こんな生活の中でも綺麗で、手元を見つめる彼のまつ毛は瞬きする度に揺れている。
息をするのも躊躇う距離に胸が高鳴った。
静かな夜の世界に、焚き火と二人の呼吸だけが響く。
「……これで、大丈夫です」
顔を上げたノアの瞳が、まっすぐに私を射抜く。
世界が、ほんの一瞬止まったように感じた。
「……ありがとう、ございます」
自分でも驚くほど小さな声。
ノアはかすかに微笑み、手を離した。
火の揺らめきが二人の影を重ね、夜の地面に溶かしていく。
――その夜、胸の鼓動は眠りにつくまで止まらなかった。




