憂慮
その夜はあまり寝付けないまま、夜明け前から目が覚めていた。
しばらく動けず、薄暗い天井を見上げる。
今日は、サラの罪を皇帝に伝え、レオンは謁見を果たす。
皇子の正式な帰還。
五年半前に失われたものが、ようやく戻る。
(きっと、無事に終わればノアが報告に来るわよね)
無意識にそう思っている自分に気づき、胸の奥が小さく揺れる。
いつもなら、重大な報告はノアが直接来る。
それが当然のように思っていた。
身支度を整え、執務室へ向かう。
窓の外は晴れていた。
雲ひとつない青空。
なのに、胸の奥だけがざわついている。
書簡に目を通し、署名をする。
報告を聞く。
いつも通りの執務をこなす朝。
それなのに、扉が開くたびに視線がそちらへ向かってしまう。
(まだ、謁見は終わっていないはずなのに……)
ノアが来るのを待っている自分に気付いた私は小さくため息をつく。
(大丈夫。
終わったらちゃんと報告が来るはず)
そう自分に言い聞かせる。
けれど、昼を過ぎても、
執務を終える時間になっても、ノアは来なかった。
そして、夕刻。
西日が差し込む頃に、ようやく扉が叩かれた。
顔を上げると、入ってきたのはフレディだった。
一瞬、心が空白になる。
「殿下、失礼致します」
「……お疲れ様です」
「今朝方、レオン殿下の謁見が無事に済んだそうです」
その言葉で、胸の奥の緊張がほどけた。
「本当に?」
「ええ。陛下はお喜びでした。
レオン殿下は皇子として皇太子宮に戻られるでしょう。
ウォード卿にも爵位が与えられることになりそうです」
その瞬間、堪えていた息がふっと抜けた。
「……よかった」
心からの言葉だった。
机に置いていた指先が、わずかに震える。
五年前、あの洞窟でレオンの死を覚悟し、世界が崩れ落ちるのを感じた。
でも、生きていてくれた。
そして、今日ようやく正式に帰ってきてくれた。
「本当に……よかったわ」
胸の奥に温かなものが広がり、頬が自然に緩む。
あの子が、ようやく家族の元に帰ってきた。
それだけで、十分なはずだった。
けれど、その温もりの奥に、ぽつんと残るものがある。
「ノアはどうしていますか?」
自然に出た問いだった。
「サラ様の拘束に向かいました。
尋問の準備に入っているでしょう」
短い報告。
そう。
今日は、サラの件も動く日だ。
帝国の歪みが一気に表に出る。
ノアは今、その中心にいる。
「……忙しいのね」
「ええ」
それ以上、フレディは何も言わなかった。
私は頷く。
分かっている。
優先順位は明白だ。
弟の帰還。
暴かれた皇族の罪。
そのどちらもが、自分の感情より重い。
フレディが去った後、部屋に静寂が戻る。
窓の外では、夕陽が沈みかけていた。
赤く染まる空、長く伸びる影。
(本当は……)
今日の報告は、ノアから聞きたかった。
あの声で、
「無事に済みました」と。
それだけで、十分だったのに。
椅子の背にもたれ、目を閉じる。
喜びは確かにあるのに、その隣に、小さな寂しさが座っている。
気づいてはいけない感情のように、静かに。
そして、その寂しさが、別の思考を連れてくる。
――もう、私は必要ないのだろうか。
レオンが帰還し、帝国には正統な皇子がいる。
私が継承権を持ち続ける理由はあるのか。
派閥、対立、混乱。
その可能性が、頭の中で形を作り始める。
西日が完全に落ち、部屋の中は薄暗くなっていた。
燭台に火を灯し、小さな炎が揺れる。
その光を見つめながら、胸の奥で何かが静かに沈んでいくのを感じていた。
―――――――――――
それから一週間、ノアが私のもとを訪ねることはなかった。
一度芽生えた負の感情は、消えるどころか心の奥に巣を張り、そこから黒い思考をいくつも生み落としていった。
このままでは、どんどんダメな方に進んでしまう。
そう直感した私は、ノアに話をしようと一人、静まり返った廊下を歩いていた。
夜の皇宮は、昼間とはまるで別の顔をしている。
回廊に等間隔に置かれた燭台の火は細く揺れ、長い影を床に落としていた。
空には雲が流れ、月明かりは時折途切れる。
足音がやけに大きく響く。
こんなにも、この宮は広かっただろうか。
指先が、無意識のうちに袖口を握りしめる。
(……大丈夫。ノアに話せば落ち着くはず)
レオンが帰還した今、私が継承権を持ち続けることが、帝国にとって本当に最善なのか。
そして――
その選択が、ノアにどんな影響を及ぼすのか。
そこまで考えて、胸の奥がひりついた。
角を曲がる。
窓から差し込んだ月光が、床を白く切り取っていた。
その上を踏み越える瞬間、妙に足が重くなる。
ノアはきっと忙しい。
皇族であるサラの尋問は簡単ではないだろう。
日々の政務に加えて、レオンの帰還の準備も手伝っているはず。
きっとまた、寝る間も惜しんで帝国のために動いている。
分かっている。
でも、ほんの少しだけ、時間をもらう事を許して欲しい。
そう思ってしまう自分が、情けなかった。
やがて、見慣れた扉が視界に入る。
皇女として皇宮に戻ってから、何度もここを訪れた。
けれど今夜は、やけに遠く感じる。
扉の前に立つと、胸の鼓動が早まった。
深呼吸をして扉をノックすると、中からノアの補佐官であるブライアント子爵が姿を現して、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、皇女殿下。
アルヴェイン公爵は、まだ戻っておりません。
恐らく尋問室におります」
「……そう、ですか」
自分の声が、少し掠れていた。
当たり前だ。
アポイントも取らずに、感情的に動いた自分が悪い。
「呼び戻してきましょうか?」
ブライアント子爵に頼めば、今からノアを呼び戻してもらうこともできる。
皇女として命じれば、どれだけ忙しくても、きっと彼はすぐに来てくれる。
それが分かっているからこそ、逆にできなかった。
(今、ノアは帝国のために動いている)
自分に言い聞かせる。
継承権のことを迷っているのは、私の問題。
帝国の未来を左右する尋問を止めてまで、聞いてもらう話ではない。
それに、もし、ここで相談して、「手放すべきではありません」と言われたら。
あるいは、「それが最善です」と、迷いなく背を押されたら。
どちらにしても、怖い。
「大した用事ではありませんので、大丈夫です」
ブライアント子爵は何も問わず、深く頭を下げた。
私は背を向けて、来た道を引き返す。
足音だけが静かな廊下に響く。
一歩、また一歩。
月光の帯を越える。
振り返らなかった。
振り返ってしまえば、きっともう一度、扉の前に立ってしまう気がしたから。
回廊の角を曲がり、人目のない小さな中庭へと足を向ける。
夜風が、頬を撫でた。
石造りの欄干に手をつき、そっと息を吐く。
静かすぎるくらい、静かだった。
(……大丈夫)
そっと自分に言い聞かせる。
私は間違っていない。
ノアは帝国のために動いている。
私は、帝国のために考えている。
それだけのこと。
それだけ、なのに。
胸の奥が、どうしようもなく苦しくて、喉がひりつく。
私はゆっくりと空を見上げた。
拒絶されたわけでもない。
傷つけられたわけでもない。
ただ、会えなかっただけ。
たったそれだけで涙を流すなんて、子どもじみている。
けれど。
――本当は、会いたかった。
ほんの少しでいい。
声が聞きたかった。
顔が見たかった。
視界が滲み、月がぼやける。
慌てて瞬きをすると、一筋だけ、涙が頬を伝った。
慌てて指で拭う。
「……情けないわ」
小さく呟く。
帝国の未来を背負うと決めた身で、
たったそれだけのことで泣くなんて。
私は弱い心を振り払うように深く息を吐き、暗がりの中で姿勢を正した。




