楓の木の下で
月光の中へと進み出たのは、三十代くらいの黒髪に褐色肌の男性。
無駄のない所作で、腰には剣を携え、背筋は真っ直ぐ伸びている。
その瞳は、かつてと変わらぬ忠義を宿している。
「ウォード卿……」
私の声が、静かに震える。
エドウィン・ウォード。
五年半前のあの日、私とレオンを抱えて逃げてくれた騎士。
そして――
レオンを探しに戻って、帰ってこなかった人。
ウォード卿は膝を折り、深く頭を垂れた。
「ご無沙汰しております、皇女殿下」
低く響く、あの日と変わらぬ声。
「あの夜にお守りできなかった非才を、どうかお許しください」
その言葉に、空気が一瞬だけ重くなる。
五年前の炎と血の記憶が、かすかに夜に滲む。
だが、レオンがすぐに口を挟む。
「違いますよ。
エドは僕を守ってくれました。
だから今、ここに居ることができています」
きっぱりと言い切るその声は、過去を引きずらせない。
レオンは私の方に向き直ると、彼の五年間を話し始めた。
「あの日、森を彷徨っている時に敵に見つかり、追い込まれた僕をエドは助けてくれました。
その後は火矢から逃げるように川に飛び込み、流れ着いた村で親切な家族が手当をしてくれて……」
彼の深紅の瞳が、過去を思い出すように静かに揺れる。
「その後はエドに剣術を習って、傭兵の仕事を受けながら生活をしていました。
姉様が戻られたと聞いて、皇宮の衛兵に潜り込んだのですが、すぐにノアに見つかって……」
私やノアにとっても試練の期間だったように、レオンにとってもこの五年間は言葉で表すことが出来ない何かがあったに違いない。
「そうだったんですね……」
「ウォード卿、レオンを今日まで守り抜いてくださったこと、感謝致します」
私の言葉にウォード卿は深く頷いて、その視線がノアへ向く。
一瞬の沈黙が落ちる。
彼の瞳にあるのは、亡き主の面影だ。
「……アルヴェイン公爵は皇女殿下を騙したわけではありません。
我々が口止めをしていただけです」
「口止め……?」
「エリシア様、欺くような真似をしてしまい申し訳ございません」
「いいえ。
ノアがそのように判断したのには理由があると分かっていますから」
とは言っても、心のどこかで寂しさを感じていた。
「ノアに見つかった後はアルヴェイン公爵領でお世話になっていたんだ。
色々準備もしたかったから……。
ノアが手伝ってくれて助かったんだ」
誇らしげなレオンの声にどこか納得する私がいた。
寒波が酷いからと言って、あのノアが半年近くも領地でじっと療養していたということに、疑念を抱かなかった訳ではない。
レオンやウォード卿の手伝いをしていたと言われれば腑に落ちる。
「そう」
そういえば、領地から戻ったノアの様子が変だったのもそれと関係しているのだろうか。
「ノアに口止めをお願いしたのは、準備が整う前に露見することを恐れてだった。
その……皇宮の人全てを信頼できる訳ではないし……」
確かに私は嘘をつくのが苦手だし、きっと、レオンが生きていると確信を持てば、言葉にしなくても綻びが出ていたかもしれない。
「そうだね。
他に知っている人はいるの?」
その問いかけにはノアが口を開いた。
「フレディ・ベネット伯爵とキース、あとは私の母が知っています」
もっともな人選に私は頷くことしか出来なかった。
「ほら、難しい話は今はなしです。
今日はお姉様の誕生日なんですから!
こういう話はまた後日にしましょう!」
その言葉に、夜の空気がやわらぐ。
楓の若葉がさらりと揺れ、月光が四人を包む。
五年半前の出来事はまだ終わっていない。
すべてが解決したわけではない。
それでも――
この春の夜に、失ってしまったと思っていた家族が一人、戻ってきてくれたのだ。
「続きは次の満月の夜にしましょう」
レオンの言葉に私とノアは頷く。
二人はローブのフードを被って背を向ける。
しばらく進んだ後、レオンが振り返った。
「姉様、今度は逃げません」
その言葉に、胸が温かくなった。
レオンの笑顔が、夜気に溶ける。
「……よかった」
二人を見送った後、口にした言葉は、それだけだった。
本当によかった。
それなのに、その瞬間、胸の奥が静かに冷える。
ほんの一瞬の揺らぎ。
けれど、隣に立った人はそれを見逃す人ではなかった。
「……エリシア様」
低く、そっと呼ぶ声。
振り返ると、ノアがこちらを見ている。
空色の瞳が、夜の中でやけに澄んでいた。
「無理をなさらないでください」
彼は静かに言う。
「……あの夜のことを、思い出されたのでしょう」
吹き抜けた風に楓の葉がさらさらと鳴る。
私は思わず瞬きをした。
(……ああ。そう見えてるんだ……)
普通、そうだよね。
せっかく弟が帰ってきたのに、自分の立場を気にして落ち込んでいるだなんて、醜すぎる。
「……ありがとう」
そう答えて、私は微笑む。
五年半前の傷も確かに疼いたけれど、
今、胸を締めつけているのは――
ノアはそっと距離を詰めると、触れないまま、守るように隣に立った。
その優しさが、胸を温める。
だからこそ、言えない。
“弟が戻ったら、私は何になるのでしょう”
だなんて。
夜は深く、楓の若葉が、月明かりを弾いた。
再会の夜は、温かいまま終わる。
けれど、その温度の奥にまだ誰にも言えない心の揺らぎが、確かにあった。




