馬車の中で
side ノア
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帰りの馬車が走り出すと、外の喧騒はすぐに遠のいた。
扉の向こうで音が閉じられ、世界には、私と殿下の二人分の呼吸だけが残る。
柔らかな午後の光が差し込み、
隣に座った彼女の頬を淡く照らしていた。
昼間の緊張がようやく解けたのだろう。
彼女は窓の外に視線を預け、ほんの少しだけ、力を抜いた笑みを浮かべる。
「……今日は、頑張ったね」
その声が、やけに近い。
返事をする前に、胸の奥が熱を帯びる。
社交の場で見せていた“皇女の顔”ではない。
今ここにいるのは、疲れを隠しきれない、一人の女性だ。
(……その顔を、誰にも見せたくない)
自分の色を纏う彼女。
肩が触れ合うほどの近さ。
ほんのわずかに揺れた睫毛。
全部が愛おしい。
(……これ以上は、隠しきれないかもしれない)
「ノア?」
小さく首を傾げられる。
その仕草だけで胸が詰まるのに、
彼女は続けた。
「思ったよりも一緒にいられなかったから、もうちょっとだけ一緒にいたい……なんて言ったら困る?」
答えを待つようなその視線が、甘くて。
一瞬、息の仕方を忘れた。
喉の奥が、熱を持つ。
理性が遅れて、追いつこうとする。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
言葉を選ぶ余裕などなかった。
「……私も、同じことを思っていました」
独占したい。
誰の視線にも触れさせたくない。
自分の色を纏って、自分の隣にいてほしい。
言葉にした瞬間、もう戻れないとわかっているのに、
胸の奥が、それを拒まなかった。
「もう少しそばに居てください」
彼女の肩がびくりと震え、
ゆっくりとこちらを見る。
その目が潤む。
次の瞬間、
エリシアの体がそっと私の肩に寄りかかった。
甘い匂いがふわりと鼻をかすめる。
触れた場所が熱を持つ。
胸が焼けるようだった。
少し手を伸ばせば抱き締められる。
その頬に手を添えて、口付けできる。
見ているだけで良かったはずなのに、どんどんと欲望が膨らんでいく。
触れたい。抱き締めたい。
見ているだけじゃ耐えられない。
他の誰も見ないで、自分だけを見て欲しい。
全部伝えてしまいたい。
指先がわずかに動いた。
――だけど、できない。
いつからか、苦しいほどに、彼女を想っている。
もし失ってしまったらと思うと、決定的な行動には移せなかった。
こうして隣に座っていただけるだけで、十分だと言い聞かせる。
午後の光に揺られながら、
彼女の温もりを肩に感じつつ、
静かな帰路が続いていく。
馬車の揺れに合わせて、
彼女の髪が肩に触れた。
そのわずかな重みだけで、
再び心臓が痛むほど跳ねた。
しばらくして、その沈黙をエリシアが破った。
「……ねえ、ノア」
先程までとは、少し違う声色だった。
迷いと、慎重さが混じった音。
「今日のバザーでお茶を出してもらったの。
甘い香り付けされたお茶で、なのに深くて重い苦味のある、貴族好みの上等な香り付け紅茶だったわ」
彼女は思い出すようにゆっくりと話した。
「ソフィアが、バザーで買ったそうなの。
とても希少だって、嬉しそうに」
エリシアは、言葉を選ぶように一拍置いた。
「……でも、飲んだ瞬間に思い出したの」
彼女の指先が小さく震え、膝の上で重なる。
その仕草に、胸がざわつく。
「皇太后陛下が……倒れられた日の、お茶だと」
その一言で、空気が変わった。
ノアの中から、先ほどまでの熱が引いて冷めていく。
「香りがですか?」
「ええ。香りはとても甘いのに、喉の奥に残る苦味。
あの日も……同じだった」
偶然、と切り捨てるには、引っかかりすぎる。
「フローレンス公女は、どこからその茶葉を?」
「出品していたのは、カールトン伯爵夫人で、仕入れ先は異国の商人。
昨年の建国祭で知り合った、と説明を受けたそうです」
建国祭。
異国の商人。
希少な茶葉。
点が、静かにつながっていく。
「殿下」
ノアは、自然と声を落とした。
「この件は、私に預けてくださいますか?
影を使って出所を辿ります」
エリシアが、ほっとしたように息を吐く。
「……ありがとう。
ノアに相談してよかったです!」
その言葉が、胸に刺さる。
守りたい。
誰よりも近くで。
誰よりも深く。
恋情と忠誠が、同じ場所で重なっている。
「茶葉の種類までは調査が及んでいませんでしたから助かります。
今後も、少しでも違和感があれば、すぐに教えてくださいね」
その言葉にエリシアは小さく頷き、
もう一度、私の肩に身を寄せた。
その行動が少し意外で、だけど嬉しい。
ノアは窓の外に視線を向けながら、静かに決意する。
この人を、
誰の陰謀にも、誰の欲にも、渡さない。
守りたい。
従者として。
そして――
一人の男として。




