彼の色
馬車の車輪が石畳を踏みしめる音が、城門の内側でふっと止んだ。
ノアが皇都に戻ったという報せを聞いた瞬間、胸の奥がふわっと浮くようなそんな感覚がした。
手が僅かに震える――思っていた以上に、緊張している自分に気づいた。
――ノアが、帰ってきた。
中庭に面した回廊を足早に進む。
まだ冷たさの残る春風が、ドレスの裾を揺らした。
心臓は緊張で早まっているのに、世界の音だけが妙に澄んで聞こえる。
やがて、見慣れた公爵家の紋章が視界に入った。
馬車の扉が開き、先に降りたのはノアの側近。
そのすぐ後――
ノアが姿を現す。
変わらない。
……でもどこか少しだけ違う。
たった半年だけなのに、少し輪郭が引き締まり、大人っぽくなった。
風に揺れた髪の影から覗いた淡い青の瞳が、以前よりも深く見える。
考えるより先に身体が動いていた。
彼に向かって駆け出す。
「……殿下?」
名を呼ばれた直後、勢い余って胸に飛び込んだ私を、ノアは迷いなく抱きとめた。
腕の中に収まると、彼はそっと私を支える。
見上げれば、青い瞳が驚いたようにわずかに開いて――すぐに、優しい笑みが溢れた。
「……お帰りなさい、ノア」
「ただいま戻りました、殿下」
「長旅で……疲れていませんか?」
「少し。ですが――」
一瞬、言葉を探すように間が空いた。
「こうして殿下にお会いできて、全部吹き飛びました」
その言葉に胸が大きく脈打つのを感じる。
顔が熱を持つのが自分でも分かった。
こんな言葉を簡単に言うなんて……。
(ノアはズルい……)
形式的な挨拶と報告を終えたあと、ノアが「お渡しするものがあります」と告げたので、一緒に私の部屋まで行くことになった。
その声音が妙に丁寧で、少し落ち着かなかった。
廊下を進む間、言葉は少なかったけれど、隣にいるだけで、胸が落ち着かなかった。
部屋に着くと、ノアは従者から、やや大きめの箱を受け取って差し出す。
「こちらを」
「……これは?」
「来週のバザーで着て頂きたいドレスです」
サーシャが箱を受け取り、テーブルの上に置く。
蓋が開けられた瞬間――
「まあ……!」
最初に声を上げたのは、ルーナだった。
「この色……公爵様の瞳と、同じ色ですわ」
サーシャも目を細める。
「とてもお似合いになりますよ、殿下」
私は、言葉を失っていた。
柔らかな空色に近い淡い青色。
繊細な刺繍とレースが、静かに光を受けている。
会場でパッと見ただけでは気付かないかもしれない。
けれど、確実にノアの瞳の色だ。
そして、その色を私に贈るということは……鈍感な私にでもはっきりと“想われている”ことが分かってしまう。
「……とても、綺麗」
そう呟くと、ノアの表情が緩んだ。
「気に入っていただけて、よかったです」
その声音には、確かな安堵が滲んでいる。
サーシャとルーナは顔を見合わせ、何も言わずに一礼した。
「では、私どもは下がりますね」
扉が閉まると、急に、部屋の空気が変わった。
ノアは少し間を置いてから、低く呼ぶ。
「……エリー」
自然に呼ばれたその呼び方に胸が高鳴る。
「今は二人きりなので……」
穏やかな声なのに、その眼差しはどこか真剣で。
その透き通った瞳の虜になる。
優しさを含んだまま、どこか危ういほど深くて――
触れなくても、その視線だけで肌が熱を帯びる。
「体調は良くなりましたか?」
「はい、おかげさまで」
手紙でも聞いていたのに、実際に聞くとホッとした。
「その……カイン公子を、側近に指名されたんですね」
唐突な名前に驚いた私は瞬きをする。
「え?」
「いえ、その……責めているわけではありません。
ただ……」
珍しく、言葉を探すように視線が揺れる。
「あなたが他の誰かのそばに居ると思うと落ち着かなくて……」
その言葉の意味が、すぐに理解できなかった私は、思わずノアを見つめる。
「また……迷惑をかけていますか?」
私の問いかけに、ノアは小さく苦笑した。
「いいえ」
彼の元気のない声に、私は落ち着かなくなって慌てて弁明しようとする。
「その、カイン公子の話ですけれど……」
ノアは、静かにこちらを見た。
「私なりに考えたつもりでした」
そう言うと、喉の奥が少し痛んだ。
「ノアの負担を少しでも減らしたくて……。
それに、あえて大公の意見を受け入れることで、制御しやすくなるかと思ったんです」
言葉を選びながら続ける。
「ですが、それが逆にノアの仕事の妨げになるなら……」
そこまで言った瞬間。
「違います」
被せるように、ノアの声が落ちた。
いつもより低くて、少し余裕のない声。
思わず顔を上げると、刺すように真剣で、なのにどこか切実な瞳が私を映した。
「あなたの判断は、正しい。
カイン・ドゥーカスを側近にしたのは、理にかなっています」
ノアは一瞬迷うように間を空けた。
「それに、彼は有能です」
その言葉に、私はほっと息を吐いた。
「良かったです」
少し、躊躇しながらも続ける。
「……では、さっき、ノアは何が言いたかったの?」
ノアは一瞬だけ視線を逸らして、困ったように眉を下げる。
何か言いかけて、けれど言葉を飲み込んで。
そして、次の瞬間――
私の身体が、引き寄せられた。
「……ノア?」
気づいた時には、彼の腕の中だった。
苦しくはないけれど、でも、どこか逃がさないと決めたような抱擁だった。
「……すみません」
耳元に落ちた声が、ほんの少し震えている。
「今は、理性的な説明ができそうにありません」
心臓が、うるさいほどに鳴る。
「……ゆっくりでいいので、ノアの考えていることを私に教えてください」
戸惑いながらも言葉を探す。
「ノアのことが知りたいの……」
私の言葉に驚いたように、腕の力が少し緩んだ。
それから、少しして、ノアは諦めたように深く息を吐く。
「……あなたが、他の誰かの所に行ってしまうのではないかと不安になりました」
吐き出すように言う。
「そのたびに、冷静ではいられない自分がいて……。
これはただの私欲です」
みっともない、と続けようとした彼の言葉を遮るように、私は彼の腕の中で首を振った。
「……嬉しいです。そんなふうに思ってもらえて」
ノアが息を呑む気配がした。
「エリー……」
耳元で囁かれたその声は切実で、甘くて。
彼の頭が、縋るように、そっと私の肩に預けられる。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるほど、愛しくて――
世界にまるで私たち二人しか居ないように、彼のことしか考えられなかった。
この半年近く、会えていなかったのに――
その距離が、かえって二人を近づけてしまったような……そんな気がした。




