クッキング
ノアが目を覚ましたのは、太陽が真上に昇る頃だった。
寝台に横たわるノアの睫毛が、かすかに震える。
何度か瞬きをして――それから、視線が定まった。
「……っ」
声が、出なかった。
喉の奥が、ぎゅっと縛られたみたいに固まって、息の仕方すら分からなくなる。
ノアは、まだ夢の中にいるような目で私を見つめ、少しだけ首を傾げた。
「……エリシア……様?」
掠れた声で、私の名を呼ぶ。
そのたった一言で、胸の奥に張り詰めていた何かが、今にも決壊しそうになる。
駄目だ。
泣いてはいけない。
何も知らない彼の前で、感情を溢れさせてはいけない。
「おはようございます」
精一杯、平静を装って言う。
声が震えなかったのは、奇跡に近かった。
ノアは、私を確かめるようにじっと見つめてから、かすかに眉を下げる。
「……ご迷惑を、おかけしましたよね」
落胆するような、その表情。
その一瞬で、昨夜の出来事が鮮明に脳裏へ蘇る。
「無理しないで」
起き上がろうとした彼を私はそっと制した。
ノアは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、苦笑した。
「……そんな顔、しないでください。
大丈夫ですから」
大丈夫。
その言葉が、胸に突き刺さる。
何が。
どこが。
ちっとも大丈夫じゃないのに。
いつか彼が、私に本当のことを話してくれる日が来ればいいのに。
しんどいと辛いと、そう言って甘えてくれたら……。
(だけど、今は、とにかく彼を休ませないといけない!)
私は床に膝をつき、ノアと視線の高さを合わせた。
「ノア、何か食べられそうですか?
食べたいものとか……」
ノアは少し困ったように眉を下げた。
恐らく食欲が無いのだろう。
そういえば、旅の途中もノアが食事をしている所をちゃんと見ていない気がする。
いつも「この仕事が終わったら」と言って一緒に食事を取っていなかった。
「じゃあノアの好きな食べ物と苦手なものを教えてください!」
「……果実や甘いものは好きです。
……えっと……豆が苦手です」
少し恥ずかしそうにそう言うノアは可愛かった。
その後、医師の診察を終えたノアはまた眠ってしまった。
私たちはノアに何か食べてもらうために、厨房を使う許可を貰い、恐る恐るそこに足を踏み入れた。
使用人のいない宿の厨房は、想像以上に素朴で、並んだ器具も見慣れていないものばかりだ。
「……で」
台所に立ったハルが、鍋を手にしてキースを振り返る。
「何を作ればいいんだ?」
「びっくりするほど鍋が似合わないですね」
キースが呆れたように笑う。
「料理のご経験は?」
「ない。厨房に入ったのも初めてだ」
「私も……ありません……」
「でしょうね」
「……あの」
二人の視線がこちらに向く。
「消化のいいもの、がいいのよね?」
「正解です、さすがエリシア様」
キースは頷き、棚から干し肉と根菜を取り出した。
「スープにしましょう。簡単ですし消化にいい」
「簡単なのか」
ハルがぼそりと呟く。
「まずは野菜を切ってください」
包丁を渡された私とハルは、一瞬ためらってから受け取った。
「……こうか?」
ハルの手元を見たキースは呆れたように小さく息を吐く。
「それは切るというより、脅してますね」
「細かいな!」
ハルは抗議しながらも、キースの指導のもと、頑張って切っている。
「エリシア様、肉はフォークじゃなくて手で抑えてくださいよ~」
「え!肉を手で持つの?」
私の質問にキースはやれやれと肩をすくめた。
切られた野菜は大きさがまちまちで肉はボロボロ。
見るからに不格好だった。
次に私は火の前に立ち、鍋を見つめていた。
「エリシア様、火、強すぎです」
「えっ、でも……」
「薬を煮るんじゃないんですから。優しく」
そう言われて、恐る恐る火を弱める。
炎が落ち着くと、胸の奥も少しだけ静かになった。
「……料理って、難しいのね」
「お二人が普段やらなさすぎなだけです」
キースは笑いながらも、私の手元をそっと直した。
湯気が立ち上り、野菜の匂いが広がる。
不格好でも、ちゃんと“食事”の形になってきた。
「毒味だ」
「毒味じゃなくて味見でしょ」
ハルがスプーンを取って、口に入れる。
「……」
「どう?」
「……正直に言っていいか?」
「ええ」
「……食べれなくは無いが、美味くはない」
三人で思わず笑ってしまった。
その後、味直しをキースにしてもらって、私たちはりんごをすりおろした。
何とか食べられるものはできたけれど、ハルと私の指先は傷だらけだ。
できた料理を簡素な盆に載せ、ノアの部屋へ向かう。
扉を開けると、彼はすでに目を覚ましていた。
「……何を、しているんですか?」
かすれた声。
ベッドに上体を起こしたノアが、盆と私たちを見比べる。
「見ての通りだ」
ハルが肩をすくめた。
「もしかして、お二人が料理を?」
「はい。キースに手伝ってもらいましたが……」
私は盆を持って一歩前に出た。
「無理に起きなくて大丈夫。
スープなら少し、飲めるかと思って」
ノアは一瞬、戸惑ったように目を伏せたが、やがて小さく頷いた。
スプーンで掬い、差し出す。
彼はそれを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
――一口。
ノアの動きが止まった。
「……いかがですか?」
恐る恐る尋ねると、彼は少し間を置いてから、息を吐いた。
「……不思議ですね」
そして、柔らかく笑う。
「とても……温かいです」
そう言って笑うノアの表情は、今まで見たどんな微笑みよりも、無防備で。
私とハルは何だか照れくさくなった。
「食べてもらえてよかったな
普通ならこんな見栄えが悪い料理、食べない」
ハルが、からかうように言う。
ノアは困ったように眉を下げ、それから私を見た。
「ありがとうございます、エリシア様」
その一言が、胸の奥に、静かに染みた。
――この人が、少しでも笑ってくれるなら、
私は何だって頑張れる。
私はそう思いながら、そっと彼のそばに腰を下ろした。




