烙印
部屋には時計の針が進む音だけが鳴り響き、気付けば辺りが薄らと明るくなり始めた。
夜がまだ名残を残している時間。
空は深い藍から灰を溶かした色へと変わり、星の光が一つずつ薄れていく。
朝とも夜とも言えない、薄明の刻だ。
街は眠り、鳥の声だけが静かに響き始める。
窓から差し込む淡い光が、室内をうっすらと満たし、寝台の上の彼の輪郭を浮かび上がらせた。
よく見ると、ノアの顔や腕に返り血が残っていることに気付いた。
私は彼の身体を拭こうと下に降り、お湯と布を準備して戻って来た。
頬と腕の次に、首筋に付いた血を拭おうとしたその時、衣服の陰、鎖骨の下の胸元の辺りに異様な色が見えた。
焼き付けられたような痕。
模様と呼ぶには不自然で。
火傷と言い切るには、整い過ぎている。
「……なに、これ……」
声にならない呟きが、零れ落ちる。
私の指先は、無意識にその痕へ伸びかけて、止まった。
触れてはいけない気がした。
けれど、目を逸らすことも出来なかった。
気づけば、私は使用済みの桶と白布を持って部屋を出ていた。
足は確かに前へ進んでいるのに、感覚が追いつかない。
足元の冷たさも、空気の匂いも、何ひとつ現実味を持たない。
次期公爵として育った彼が、いつ、どこであの様な焼印を負ったのだろう……。
私は、彼の何も知らない。
病院の外に出ると、地平の向こうから光があふれ出した。
薄い雲を押しのけるように、朝日がゆっくりと昇ってくる。
夜の冷たい空気にわずかな温もりが混じった。
影が伸び、色を取り戻していく街の中で、朝だけが、何事もなかったかのように始まろうとしている。
私は小さく息を吐き、手に持った桶を返しに行こうと院内に戻った。
すると、奥の方から声がした。
「……ずっと前から壊れているんです」
低く、吐き捨てるような声。
キースだ。
思わず足を止める。
戻ろうとした、その瞬間。
「だろうな」
今度は、ハルの声。
抑えた声色が、逆に張り詰めて聞こえた。
私は、動けなくなった。
「もう、俺もどうしたらいいのか……分からないっす。
主の為にできることは何だってしたい。
でも、俺はあの人の為に何も出来ない……っ」
キースの声が、少しだけ震えていた。
「五年前の事件のあとから」
胸が、嫌な音を立てた。
「皇太子一家の事件か」
「……はい。
ずっとまともに眠られていません。
毎晩、毎晩、一時間も眠らないうちに魅入られて……」
「それで、あの自傷か?」
「……見られたのですね」
「あぁ、傷を確認する時にな」
「あの日、エルダールから帰られた日に、皇族を守れなかった自分を罰する為に自ら焼いたんです」
その言葉に、世界が一瞬、遠のいた。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「焼いた?
止めなかったのか」
「止めましたよ!!」
キースの声が、珍しく荒れた。
「でも……あの時のノア様には、誰の言葉も届かなかった。
あれは忠誠じゃない。
ノア様は自分の命を贖罪の手段として使っているんです」
手足が冷えるのを感じた。
外気のせいじゃない。
胸の奥が凍っていく。
鼓動だけが不自然に大きく、耳の内側で鳴っていた。
「……馬鹿だな」
ハルの声が低く響いた。
「全部一人で背負う気か」
「そういう人なんですよ」
キースは、苦く笑った。
「表向きはいつも微笑んで、誰にでも優しいし、困っている人には手を差し伸べる。
なのに、自分には一切の温情を向けない」
「特にエリシア様の前では、絶対に見せません。
いつも気遣って、庇って、守って……自分に命がある限り、どんなにボロボロでも守らないといけないと思い込んでいる」
その言葉が、刃物みたいに突き刺さる。
知らなかった。
気付かなかった。
――私が、彼を追い込んでいる。
そっと一歩、後退る。
これ以上、聞いて居られなかった。
そう、逃げたんだ。
でも、もう遅い。
彼が、どんな気持ちで私を見ていたのか。
どんな覚悟で、隣に立っていたのか。
知ってしまった。
私だけが、呑気に好きだのなんだのって……。
「何やってんの……私……」
足音を殺して、何もなかった顔で、部屋へ戻る。
だけど、扉を開けられなかった。
私は彼の隣に居ていい人間なのか。
彼が目覚めた時、どんな顔をすればいいのか。
分からなかった。
泣いたって何も変わらないのに、ボロボロと零れ落ちる涙が止まらない。
誰よりも大切で、誰よりも守りたい。
大好きな人。
なのに、私はきっと、存在するだけで誰よりも彼を傷つけ、追い込み、危険にさらす。
立って居られなくなって、私はその場にしゃがみこんだ。
どうしたら、彼を救える?
どうしたら、彼を守れる?
(お前が消えればいい)
そんな囁きが胸に響く。
(お前が何かすればするほど、ノアを苦しめる)
そうかもしれない。
そうなのだろう。
だけど――。
それでも――。
ノアのそばに居たい。
涙を拭いて、立ち上がる。
自分勝手、エゴ、利己的、独善的。
そう言われればそうだろう。
でも、彼が居ない世界で生きていく事など、もうできない。
潔く身を引くなんて、考えただけでも死んでしまいそうなくらい胸が痛い。
扉を開いて、彼の眠る寝台に駆け寄った。
変わらずに眠る彼の腕にすがる。
眠っている人間に何をしているんだって自分でも思う。
だけど、止められなかった。
「ノア、ノアが好き。
大切なの……っ」
口にすれば、思いが形を持つ。
もう、この気持ちに嘘は付けなかった。




