彼のいない世界
住人の一人が持っていた荷車にノアを乗せると、私たちは街へと歩き始めた。
ノアは目を閉じたまま、静かに呼吸を繰り返している。
だけど、私はその手を離せずにいた。
彼の冷たい指先が恐怖を煽る。
――お願い。
胸の奥で、何度も同じ言葉を繰り返す。
皇女としての理性が、頭の隅で囁く。
冷静でありなさい、と。
けれど。
今は、ただ怖かった。
ノアを失うかもしれない、という想像が、何度も脳裏をよぎる。
その度に、胸を張り裂くような痛みと共に涙が溢れ出した。
ノアが居ない世界なんて想像したくもない。
あの、温もりを、柔らかい微笑みを、優しい眼差しを、彼の全てを失いたくない。
彼に会えなくなる未来なんて、生きていける気がしなかった。
しばらくすると、街のハズレにある一軒家に着いた。
街の医師は、白髪交じりの穏やかな人物だった。
ノアの診察を終えた後、しばらく黙り込む。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
「……命に別状はありません」
その言葉に、胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出る。
「極度の疲労です。
肉体だけではありません。
精神も、限界だったのでしょう」
医師は続けた。
「休養が必要です。最低でも数日。
できれば、眠らせてあげてください」
ゆっくりと、ノアを見る。
生きている。
それだけで、今は十分だった。
けれど、それと同時にここまで彼を追い詰めたのは自分かもしれないという思いが消えなかった。
とりあえず、私たちはノアが目が覚めるまで病院の二階で休ませることにした。
部屋は簡素だった。
木の寝台に、薄い毛布。
公爵である彼を療養させるのには似つかわしくない部屋だ。
キースが公爵領に文を送ったから二、三日もすれば公爵家の者が迎えに来るだろう。
窓の外では、夜の虫の声が静かに鳴いている。
医師の言葉通り、ノアは深く眠っている。
呼吸は穏やかで、苦しそうな様子もない。
それでも、私は彼のそばを離れられなかった。
キースは猟犬のように神経を尖らせて辺りを警戒し、ハルは椅子に腰掛けたまま、黙っていた。
しばらくして、ハルがキースに声をかけた。
「過労で倒れるって……
どんな仕事の仕方をしているんだ?」
「……ノア様は、その……
五年前から不眠症が酷くて、殆ど寝ないんです。
俺たち公爵家の者がどんなに言っても休まず、医者にもかかりません」
「相変わらず、自己破壊的だな……
上に立つ者がそれじゃあ駄目だろ」
ハルの言葉に、キースの眉がぴくりと動いた。
「……ノア様を全て知ったように言わないでください」
低い声だった。
感情を抑えようとはしているが、ノアを否定されたことへの苛立ちが滲み出ている。
「このまま、こんな生き方を続けさせるつもりか?」
ハルは椅子から立ち上がる。
「こいつが倒れたら意味ないだろ」
キースが一歩踏み出す。
「ノア様は、自分が倒れることより、
周囲が傷つくことを選ばない人です」
「だから危険だと言ってる」
ハルの声は、鋭かった。
「一人で背負いすぎだ。
それを止められない周囲も含めて、問題だ」
一瞬、部屋の空気が張り詰める。
「それでも……公爵家と帝国を守ってきたのは、ノア様です!」
キースは視線を逸らさずに言った。
「分かっている」
短く、ハルは息を吐いた。
「だからこそだ。
まだ若いんだから、同じやり方を続けさせるな」
「……もう、やめてください」
二人の視線が、同時にこちらを向く。
「ハル、言いたいことは分かるけど言葉が過ぎるよ。
キースも一国の王太子にその態度は良くないわ」
震えそうになる声を、必死に抑えた。
「なにより……
このまま争うのは、きっと彼が一番嫌がります」
キースは、唇を噛みしめる。
ハルは、目を伏せた。
「……悪かった」
最初にそう言ったのは、ハルだった。
「今は、休ませることが最優先だな」
「……はい」
ハルは少し席を外すと言って、外に出た。
「すみませんでした。
俺も少し頭を冷やしてきます」
続いてキースも部屋を後にする。
再び部屋に静けさが戻った。
私は、眠るノアの方を見る。
――ノアがいないだけで。
色んなことが上手くいかなくなる。
その事実が、胸に重くのしかかった。
(また、ノアを頼ってる……)
確かにハルの言う通りだ。
ノアが倒れれば、公爵家の者たちだけではない、帝国も領地民も困る。
それだけ、彼の背負う物は大きいのだ。
そう、まだ成人してもいない公爵にそれだけ頼っている帝国の国政にも問題がある。
眠っている彼の顔は、驚くほど幼く見えた。
仮面も、役目も、責任もない、ただの青年の顔。
元はといえば、彼が無理をしたのは私のせいだ。
私が至らないからノアに負担をかけている。
胸の奥がずきりと痛む。
――この人は、どれほどのものを背負って、
どれほど一人で耐えてきたのだろう。
彼は、自分の身体よりも、ずっとアルヴェイン公爵家の者の役目を優先してきた。
ノアは、いつもそうだ。
弱さを見せない。
見せる選択肢を最初から持っていない。
(そんなこと、前から分かっていたじゃない……)
なのに、私は、この人を守りたい。
この人の隣に立ちたいと勝手に決断して突っ走って……。
疲れているのに護身術を教えさせて、この間も寝れない自分に付き合わさせた。
逆に彼の仕事を増やして、追い込んでいたのは他でもない、私だ。
「ごめんなさい……」
その呟きは誰に届くでもなく、暗い部屋に溶けて行く。




