眠れぬ夜
深夜。
外は月の光だけが静かに宿舎を照らし、部屋の中は、寝息の気配が並んでいる。
けれど、私は眠れなかった。
明日から始まる旅への不安と恐怖からか、この環境のせいか……。
窓の外から聞こえる、風の音がやけに胸に残って、どうしても落ち着かない。
(……少し、お水を貰いに出よう)
そっと寝台を抜け出し、足音を忍ばせて扉へ向かう。
手を伸ばした瞬間――
「……エリー」
背中に、小さく落ちる声。
心臓がドキッと音を立てる。
振り返ると、薄闇の中でノアが寝台から身を起こしていた。
ノアは寝ぼけているわけでもなく、静かにこちらを見ている。
「い、今……呼んだ……?」
囁くような声しか出なかった。
ノアは寝台を降り、誰も起こさないよう静かに近づいてきた。
「……もう、呼んでくれないのかと……」
ぽつりと漏れた言葉に、ノアの瞳がわずかに揺れた。
「皇宮では呼べませんでした。
誰かに聞かれたら、あなたに迷惑がかかるので」
静かで、優しい声だった。
「呼びたくなかった訳じゃありません」
その瞬間、胸に積もっていた不安が全部ほどけていく。
ああ、そうだったんだ――そうであってほしいと思っていた答えが、目の前にある。
「……よかった……」
安心と嬉しさと、さっきまでの不安が一気に混ざって、
涙がじわっと溢れた。
「エリー?」
名前を呼ばれるたび、胸が震える。
「ごめん……変だよね……わたし……」
どうしてこんなに涙が出てくるのか、自分でも分からない。
でも涙は止まらなくて、指先で拭っても拭っても溢れてくる。
ノアは、そっと私の頬に触れる。
拭うというより、受け止めるような手つきで。
「泣かないでください」
その声が優しくて、温かくて、
もう好きが止められなかった。
「ノア……」
気づけば、体が勝手に動いて、
ノアの胸に飛び込んでいた。
ノアの体温が、ふわっと私を包む。
驚いたように、戸惑うように一瞬の間を置いてからノアの腕が静かに、私の背中へ回った。
ぎゅっと抱きしめるわけじゃない。
かといって離すわけでもない。
そんな、優しい抱きしめ方。
「……落ち着くまで、このままで」
囁く声が耳のすぐ近くで響く。
それだけで胸がいっぱいになった。
(ノアが好き……もう、どうしようもないくらい……)
ノアの胸に額を預けたまま、しばらく動けずにいると――
頭の上に、かすかな重みが落ちた。
彼の手がが、私の髪に触れている。
撫でる、というよりも、確かめるように。
絡まった感情をほどくみたいな、ゆっくりとした動きだった。
「……落ち着きましたか?」
囁く声が、すぐ近くで響く。
「……うん」
そう答えたのに、胸の鼓動はまるで落ち着く気配がない。
ノアは一瞬だけ逡巡するように指を止めてから、静かに言った。
「……眠れないのでしたら」
ほんの少し、言葉を選ぶような間があった。
「手を……握っていましょうか」
そう提案する彼の声はあまりに穏やかで、あまりに優しくて。
「……はい」
思わず即答してしまった自分に、あとから気づく。
ノアは微笑むように小さく息を吐き、音を立てないよう私から離れると、私が使っていた窓際の寝台へと視線を向けた。
「戻りましょうか」
二人で、音を立てないようにそっと歩く。
月明かりが窓から差し込み、寝台の白い布を淡く照らしている。
並んで腰を下ろした瞬間、ノアの手が伸びてきた。
手に触れるだけの、距離。
それなのに、体温がはっきり伝わってくる。
――指が、絡む。
「……どうですか」
小さな声。
「……余計に、眠れなくなりました」
正直な答えに、ノアがふっと笑う。
「……でしょうね」
苦笑混じりの囁き。
窓の外では、夜風が木々を揺らし、遠くで虫の音が続いている。
なのに、意識はすべて、繋がれた手に集中していた。
親指が、無意識に私の指の背をなぞる。
「ノア……」
名前を呼ぶと、握る力が、ほんの少しだけ強くなった。
「……眠れなくなっても、離さないで」
「はい」
宥めるような優しい笑みに胸がきゅっと締めつけられた。
(だめだ……もう、だめ……)
触れているだけなのに、
心はもう、限界だった。
ノアのことが好きすぎておかしくなりそう。
――結局、その夜。
私たちはほとんど眠れないまま、
夜明けの気配を迎えることになった。




