岐路
街道を進む馬車の列は、遠目にも皇族を乗せていると分かるほど整っていた。
帝国の紋章を掲げた先導車。
その後ろに続く数台の馬車と、両脇を固める騎士たち。
隣国エルダールへの公式訪問にふさわしい、堂々たる使節団だ。
――公には、だけど。
その中心の馬車に、私達は乗っている。
車輪が石を踏むたび、規則的な揺れが身体に伝わる。
向かいに座るノアは、外の気配を読むように、時折視線だけを上げていた。
ハルは窓の外を眺めながら、落ち着かない様子で呟いた。
「こんな大所帯を欺こうだなんて……見かけによらず大胆だな。
大丈夫なのか?」
「問題ありません」
ノアはそう言って、私を見る。
「少し……ご負担をおかけしますが」
「え?」
問い返す間もなく、ノアが外に静かに合図を送った。
「止めてください」
そして、外に向かって声を張る。
「皇女殿下が、気分を悪くされた」
その一言で、空気が変わった。
馬車が緩やかに減速し、外から聞こえてくる蹄の音が乱れ、護衛の一人が何かを指示する声がする。
騎士たちがざわめき、列の動きが止まる。
すぐに、護衛隊長らしき人物が馬車の側へ駆け寄ってきた。
扉が開かれると、ノアは迷いなく私のもとへ手を伸ばした。
次の瞬間、身体がふわりと浮く。
「……っえ!」
思わず息を呑んだ。
腕を回され、抱き上げられる。
思考が追いつくより先に、心臓が強く脈打つ。
規則的だったはずの鼓動が、一気に早まった。
「演技ですので、少々お付き合いを」
そう囁く声が、すぐ耳元で響く。
低くて、落ち着いた声。
それが余計に、鼓動を早くした。
(ち、近すぎ……!)
頬が熱い。
間違いなく、耳まで赤くなっているのが分かる。
演技だという事実を頭では理解しているのに、身体がまるで言うことを聞かない。
何の相談も無しにこんなことをするのは彼らしくないのに、驚くほど丁寧に扱ってくれる手つきは彼そのものだった。
「……っ」
視線を上げてしまえば、すぐそこにノアの横顔がある。
公爵であると同時に、剣士なのに傷一つ無い陶器のような白い肌。
華奢な体つきに似合わず、驚くほど男性的な喉元。
長い睫毛が、視線の動きに合わせて揺れている。
(これは演技、これは演技!)
「殿下、大丈夫でございますか!」
駆け寄ってきた近衛の声に、はっと我に返る。
慌てて視線を逸らし、
少しだけ弱った声を作る。
「……少し外の空気を吸いたくて」
さらにノアが続けた。
「馬車に酔われたようですので、少し人払いを」
その間も、私は彼の腕の中にいた。
力強くて温かい――。
歩調は一定で、揺れはほとんどない。
なのに、心臓の音だけが、やけに大きく感じられる。
(落ち着いて……落ち着いて……)
だけど、街道脇の森へ足を踏み入れても、その鼓動が静まることはなかった。
葉の影が濃くなり、外からの視線が遮られた頃、ようやくノアは私をそっと地面に下ろした。
足がついた瞬間、ノアと視線が絡む。
近すぎた距離の名残が、まだ身体に残っているせいか、彼の青い瞳が、いつもよりも近く、深く見えた。
ノアはすぐに視線を外したけれど……
「……失礼しました」
そう言って一歩下がる仕草は、いつもの完璧な側近のものなのに、ほんの少しだけ気まずそうに目を伏せている。
鼓動がまた小さく鳴ったその時。
「いやぁ、いいもの見せてもらいました~!」
場違いなほど軽い声が、木陰に落ちた。
ほっとしたような、名残惜しいような、よく分からない感覚が胸に広がる。
そこに現れたキースにノアが即座に鋭い視線を向けた。
「冗談ですって。
ちゃんと仕事はしてますよ?」
キースは肩をすくめながらも、動きは素早かった。
馬車へ戻り、ハルを連れてきて、さらに着替えの入ったケースを抱えてくる。
どうやら“吐いた設定”は、
想像以上に徹底されているらしい。
「どうやってハルを連れてきたの?」
私がそう尋ねると、キースは満面の笑みで言った。
「エリシア様が吐かれたって伝えたら、
それはもう、すっ飛んできましたよ!」
その言葉通り、
ハルは眉をひそめ、私の顔をじっと見てくる。
「……顔色は、悪くないな」
「演技ですから」
そう答えると、
彼は小さく咳払いをした。
「……そう、だよな」
分かっているはずなのに、どこか落ち着かない様子だ。
ノアは一歩引いた位置から、全体を見渡すように視線を走らせている。
その横顔は、もう完全に“公爵”のものだった。
――さっきまで、あんなに近かったのに。
少しだけ、寂しさに似た感情が胸をかすめる。
「そろそろ頃合いですかね」
ノアの声に、キースが頷いた。
視線の先、木陰の奥には、いつの間にか、もう一台の簡素な馬車が待機している。
そして、そこから現れたのは――
「……私?」
私と同じ体格、同じ髪色。
深くフードを被り、顔立ちは影に隠れているけれど、
所作までよく似せられている。
「よろしくお願いします、殿下」
身代わりとなる彼女が、静かに頭を下げた。
私はその視線を受け止め。ゆっくりと頷く。
身代わりとなる三人が馬車に戻るのを見ながら、ハルがボソリと呟く。
「あんなのすぐにバレないのか?」
「馬車の近くに控えているのは公爵家の影ですから、この作戦も知っています。
こんな茶番でも、遠くから見て違和感が無ければそれで良いんです」
ノアの言葉通り、数分後には何事もなかったかのように、使節団の馬車が再び動き出した。
エルダールへ向かう使節団。
それを木陰から見送りながら、私は無意識に拳を握りしめていた。
「……どうか、ご無事で」
「大丈夫ですよ」
ふいに、低い声が隣に落ちる。
振り向くと、ノアがいた。
距離は、きちんと保たれている。
けれど、その声は、ほんの少しだけ柔らかい。
「彼らは強いですから」
――その言葉に、胸の奥が、じんと熱くなる。
「……はい」
馬車の列が遠ざかり、蹄の音が完全に消えた頃。
「……よし」
キースが小さく手を叩く。
「こっからが、本番ですね」
そこにあるのは質素な馬車と、最低限の荷。
行き先はもちろん、旧ジャイロ男爵領。
私たちが行くのは真実に近づくための、裏の道になる。
「行きましょう」
そう言うノアの声は低く、静かだった。




