進歩
孤児院からの帰り道、馬車はゆっくりと石畳を進んでいた。
慣れない遊びをしたせいか、身体の奥に心地好い疲れが溜まっている。
私は背もたれに身を預け、揺れに合わせて流れていく外の景色をぼんやりと眺めていた。
沈み行く太陽の光が、まるで水に溶けた絵の具のように空に滲む。
ふと、向かいに座るノアがぽつりと言った。
「エリー……
いえ、エリシア様は、凄いですね」
「え?」
不意に名を呼ばれ、顔を向ける。
「皇族として、民のために何をすべきかを、自然に選ばれている」
きっと、孤児院で話していたバザーの話だろう。
思いがけず向けられた言葉に、胸の奥がふっと温かくなる。
「……まだ、何も成し遂げてはいません」
「それでも、です」
ノアは穏やかに微笑む。
「富や立場に溺れ、責務から目を逸らす者は多い。
ですが、殿下は違います」
その言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
ノアに少し認めて貰えたようで嬉しかった。
「バザーの件ですが、お手伝いできることがいくつかあります」
仕事の話に戻る声音。
「安全面と、資金の流れについては、補佐させてください」
「ありがとうございます」
気持ちを切り替えようとしながら、私は続けた。
「バザーの開催を依頼するなら、どの家門が良いでしょうか?
私やアルヴェイン公爵家の名前だと、少し露骨でしょうし……」
「そうですね」
少し考える仕草の後、ノアが答える。
「でしたら、ミッチェル伯爵家はいかがでしょう」
母の生家の名に、思わず息を飲む。
「伯爵夫人は交友関係が広い。
それに、アメリア様のご実家ですから、殿下が顔を出される理由にもなります」
「……ありがとうございます!
相談してみます」
思わず声が弾む。
「私からも、話しておきますね」
「助かります」
馬車が角を曲がり、揺れが少し大きくなる。
「開催は……調査から戻った後になりますよね」
来週末には調査に出る。
自然と、少し先の未来を思い描いてしまう。
「そうですね」
少し間を置いてから、ノアが言った。
「よろしければ、その茶会は私にエスコートさせてください」
一瞬、言葉の意味を噛みしめる。
ノアが、隣にいてくれる。
それだけのことなのに、胸の奥が一気に騒がしくなる。
口元が緩みそうになるのを、必死に堪えた。
私情ではない。
分かっている。分かっているけれど――
それでも、嬉しいものは嬉しい。
「……ありがとうございます、ノア!」
「お礼を申し上げるのは、私の方です」
その言葉に、胸の奥で何かが、そっと形を持った気がした。
――隣に立ちたい。
その願いが、輪郭を帯び始める。
私はほんの少しだけ、
本当に、ほんの少しだけ、この人の隣に近づけた気がしていた。
その時だった。
轍を踏んだのか、馬車がガタンッと大きく揺れる。
前のめりになった身体を、ノアの腕がとっさに支えた。
自然と視線が絡み合う。
いつもなら、どちらかが先に逸らすのに――今日はしなかった。
ノアの青い瞳が、夕日を映して揺れている。
冷静なはずのその色に、確かな熱が滲んでいた。
胸も、頬も、指先までが熱い。
恥ずかしくて、目を逸らしたいのに、離れられない。
「――申し訳ございません!大丈夫でしたか!」
御者の声が、現実に引き戻す。
私たちは、はっとして身を離した。
後方へ回り込もうとする御者を、ノアが静かに制する。
「問題ありません。先へ進んでください」
やましいことなど、何もしていない。
それでも、ひどく見られてはいけないものを覗かれそうになった気分になって、私は思わず視線を伏せた。
頬から耳まで、のぼせたように熱い。
だけど、このまま終わらせたくなかった。
「……ノア」
名前を呼ぶと、彼の視線がこちらを向く。
「二人きりの時は……」
言葉を選ぶように、ほんの一瞬だけ息を吸った。
「エリシア様、じゃなくて……
エリーと呼んでくれませんか」
言葉にした途端、欲張りすぎたかもと思った。
けれど、今の関係性から少し進みたかった。
「……それは」
ノアは一瞬、目を見張り、返答に窮する。
そう呼ぶことは、二人の関係を変えることになると分かっているからだ。
「……二人きりの時だけ、でしたら」
「……はい」
五年前のように快く呼んでくれるわけではない。
そのことにほんの少しだけ胸が痛くなる。
それでも、拒まれなかったことが、何より嬉しかった。
ノアは視線を逸らし、窓の外へ目を向ける。
流れていく街並みを追いながら、ぽつりと零す。
「……呼び方を変えると、勘違いしてしまいそうになる」
どこか、自分に言い聞かせるような言い方だった。
私は少し迷ってから、聞いてしまう。
「……勘違い?」
一瞬、ノアの呼吸が止まる。
答えを探すように、わずかに視線が揺れた。
「……関係性というか、距離が近くなったような……」
でも、そのあとが続かない。
数秒の沈黙の後、ようやく。
「ただ……私が、落ち着かなくなるだけです」
理由にもなっていない言葉。
それでも、胸の奥に真っ直ぐ落ちてきた。
呼ばれるだけで、足元が揺れるあの感覚。
それを、彼も知っている。
私は、それ以上踏み込まなかった。
代わりに、そっと名を呼ぶ。
「……ノア」
彼はすぐには返さない。
その代わりに、こちらを見る。
逃げ場を失ったみたいに、青い瞳が揺れた。
「……エリシア様」
整えられた声。
いつもの距離。
「今、二人だよ?」
少しからかったつもりだった。
いつもドキドキさせられてばかりだから。
「……エリー」
誰にも聞こえないほど、小さい声に胸がキュッと鳴る。
ノアは何事もなかったように窓の外を向く。
ただ、その耳が、少しだけ赤い。
(……可愛い)
今、私、ノアに触れたくなってる。
名前一つで、ここまで揺れてしまうなら。
私たちは、もう同じ場所には戻れない。
それでも――
二人きりの、この馬車の中だけは。
確かに、
「エリー」と「ノア」だった。




