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私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~  作者: MARUMI
探訪編

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嫉妬

 side ノア

⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


 夕刻の訓練場には、昼間に蓄えられた熱がまだ石畳の奥に残っていた。

 陽はすでに西に傾き、長く伸びた影が地面をなぞる。

 風が通り抜けるたび、火照った身体を撫でるようで、わずかに心地好い。


「……ここまでで、今日は終わりにしましょう」


「は、はい……!」


 ノアがそう告げると、エリシアは小さく息を吐き、ホッとしたように肩の力を抜いた。


 だがその表情には、安堵と同時に、ほんの少しの名残惜しさが滲んでいた。


 ――もしかして、無理をさせてしまっただろうか。


 護身術とはいえ、普段から身体を動かしている者でなければ疲労は大きい。

 ましてや彼女は、剣を振るう騎士ではない。皇女だ。

 屈強な兵を相手にするくせで、知らず知らずのうちに動きを詰めすぎていたかもしれない。


 それに――

 男に腕を掴まれ、距離を詰められること自体、慣れているはずがない。


 そう分かっているのに。


 動作のたびに、熱を帯びる頬。

 視線の置き場に迷うように伏せられ、またこちらをうかがう長い睫毛。

 触れる直前、ほんの一瞬だけ強張る細い指先。


 そのすべてが――

 ノアの理性を、静かに削っていった。


「ありがとうございました、ノア」


  エリシアは真っ直ぐにこちらを見て、丁寧に頭を下げた。

 礼儀正しく、それでいてどこか無防備な仕草。


「今日だけで、ずいぶん分かるようになった気がします」


「……飲み込みが早いですね」


 ――覚えがいいと言うより、彼女は素直すぎる。


 身を預け、腕を委ね、次の動きを待つ。

 そこには警戒も躊躇もなく、ただこちらを「信じて疑わない」という前提だけがあった。


 その事実が、静かに胸に沈む。


「また、キースと復習しておきます!」


 屈託のない声音。

 他意のない、何気ない一言。


 それなのに――

 ノアは一瞬、言葉を失った。


 キースは彼女の護衛として、ノア自身が選び、命じた相手だ。

 忠誠心も腕も確かで、信頼している部下。


 それでも。


 胸の奥に、ざらりとした感触が走る。


 あの無防備な表情を。

 安心しきった瞳を。

 触れられる直前の、かすかな戸惑いを。


 他の男が見るのが、触れるのが――。


 思考がそこまで辿り着いた瞬間、無意識に拳に力が入っていた。


 胸の奥に、理由の分からないざらつきが走った。


 彼女が見せる、あの無防備な表情。

 安心しきった目。

 触れられることへの、かすかな戸惑い。


 それを――

 他の男が見るのか。


 触れるのか。


 考えただけで、無意識に拳に力が入る。


「……キースではなく、ルーナに頼まれては?」


 自分でも驚くほど、硬い声だった。


 エリシアは一瞬、言葉の意味を量るように目を瞬かせ、それから困ったように微笑む。


「それが……ルーナには、あくまでも侍女としての体裁を保ちたいからって、断られてしまって」


「ああ……」


 彼女なら、確かにそう言うだろう。

 侍女として振る舞うため、徹底的に“侍女であること”を選んでいる。


 だからといって。

 キースに任せたいわけではない。


 ノアは、わずかに視線をそらした。


 ――独占したい。

 彼女のすべてを。


 そんな感情を抱く資格など、自分にはないはずなのに。


「……明日は難しいですが」


 言葉を選び、慎重に続ける。


「明後日でしたら、時間を作れます。

 一緒に復習しましょう」


 その瞬間。

 エリシアの表情が、ぱっと花開いた。


「本当ですか?」


「ええ。少し遅い時間にはなりますが」


「それでも、十分です!」


 その笑顔に、胸の奥がちくりと痛んだ。

 喜んでくれたという満足と、彼女の為でなく自分の欲の為の言葉だという自覚が、同時に押し寄せる。


「……では、明後日の同じ時間にお迎えに上がります」


 ただそれだけの約束。

 それだけなのに、胸の奥がわずかに浮き立つ。


 約束を交わすという行為が、これほど心を軽くするとは思わなかった。


 これ以上、距離を詰めるべきではないと分かっているのに。


 それでも、もっと近くにいたいと願ってしまう。


 ノアは、意識的に話題を切り替えた。


「明日は、公務で帝都の学校を訪問する予定があります」


「……学校?」


「はい。以前、私が設立に関わった施設で、身分を問わず学べる場を――」


 言葉を続けかけて、止めた。


 本来、皇族にする話ではない。

 ノアにとっては世間話のつもりでも、エリシアにとっては政治の話になってしまう。


 そう考えた瞬間、彼女が口を開いた。


「……私も、同行してはいけませんか?」


 彼女の表情には何の打算も含まれていない。


「ノアの仕事を、ちゃんと知りたいんです」


 その純粋な一言が、胸の奥深くに落ちた。


 立場が違うから。皇女だから。

 何度も使ってきた言い訳が、喉まで湧き上げる。


 でも、彼女が"皇女"としてではなく隣に立ちたいと言うのは、一人の人として自分を見て欲しいということだ。


「……身分を隠して、でしたら」


 その言葉にエリシアは、ふっと力の抜けたような微笑みを浮かべた。


 それは、許可を得られたことへの安堵と、胸に溜め込んでいた想いがほどけたような、柔らかな笑みだった。


「ありがとうございます」


 声は控えめで、それでも確かに弾んでいる。


「実は以前、エルダールの使者として市街視察に出た際に、キースに案内してもらったんです」


「その時に……ノアが支援している学校があると聞いて。

 どんな場所なのか、ずっと気になっていました」


 視線を伏せながら語るその横顔は、思い出を辿るように穏やかで。

 彼女が、自分の知らない時間の中で――自分の仕事に思いを馳せていたことが、静かに胸に染み込んでくる。


「そうだったんですね」


 嬉しい。

 確かに、嬉しかった。


 彼女が知らないところで、自分のことを考えてくれていた。

 その事実は、誇らしくもあり、救われる思いもする。


 だが同時に。

 その時間、彼女の隣にいたのが――自分ではなかったという事実が、胸の奥をちくりと刺した。


「明日訪ねるのは、学校に併設された孤児院で」


 意識的に話題を進める。


「孤児院……ですか?」


 エリシアの声が、少しだけ低くなる。

 その一語に、彼女なりの重みが滲んでいた。


「はい」


 ノアはゆっくりと言葉を選んだ。


「私は父を失った後も、公爵家という後ろ盾がありました。

 ですが、親を失った子どもたちの誰もが、誰かに支えられるわけではありません」


 エリシアは何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。

 その瞳は揺れもせず、逸らされることもなく、真っ直ぐだった。


「五年前の事件で、親を亡くした子どもたちも多くいます。

 行方の分かる者は、公爵家で雇い入れたり、孤児院で受け入れてもらっていますが……」


 一拍、言葉を置く。


「行方の分からない子どももまだ多くて」


 あの日。

 命を散らしたのは、騎士や使用人だけではない。

 彼らにも家族があり、帰る場所があった。


 生き残った自分が、そのすべてを背負えるわけではないと分かっていても――

 何もしないという選択だけは、できなかった。


「ただの自己満足かもしれません」


 そう前置きしてから、静かに続ける。


「ですが、何か自分にできることをしたいのです。

 それが……生き残った者にできる、唯一の贖罪ですから」


 言い終えた瞬間、風が吹き抜けた。

 夕陽が傾き、二人の影がゆっくりと重なる。


 その沈黙を破ったのは、エリシアだった。


「……私にも」


 小さく、けれど確かな声音。


「私にも、手伝わせてください」


 ノアは、思わず彼女を見た。


 その表情には、同情も、義務感もなかった。

 ただ、自分の意志で“関わろう”とする人の目だった。


 沈みゆく夕陽が、二人の足元を同じ色に染めていく。


 近すぎず、遠すぎず。

 それでも、確かに並んで立っている距離。


 この関係が、どこへ向かうのか。

 ノアには、まだ分からない。


 ただひとつ。

 彼女の隣に立つ資格が欲しい。


 そう願ってしまった時点で、すでに一線を越えているのかもしれなかった。


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