胸の高鳴り
声を聞いた途端、キースの顔色が真っ青に変わる。
声のした方に目を向けると、ノアが立っていた。
視線は、キースの手に落ちている。
(もしかして!
キースが私を襲っていると誤解してる?)
「護身術を教えてもらっているの!
その……私からお願いしました」
そう告げると、ノアは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
「……そうですか」
短い沈黙。
「それなら、私がお教えしましょうか」
その言葉に、キースが安堵したように胸を撫で下ろす。
「それじゃあ、おいとましま~す!」
と、軽い足取りで彼は走り去っていった。
キースが離れ、訓練場に残ったのは、私とノアだけだった。
ノアは自然な動作で位置を代わり、私の前に立つ。
夕暮れの光が石畳を赤く染め、遠くでは居残り練習をしている兵士たちの訓練の音が響いている。
けれど、私の意識はすべて、目の前の人に奪われていた。
「キースとは、どこまでしましたか?」
ノアはいつもと変わらない声音で言う。
落ち着いていて、淡々としていて、
――私の気持ちなんて何も知らない顔。
「えっと……。
手首を掴まれた時と、壁に追い込まれた時を……」
「では、続きをしましょう」
「え」
確認もなく、ノアの手が伸びてきた。
そう言うと、ノアはキースと代わって私を壁に追い込む。
背に冷たい壁が触れた瞬間、逃げ道がふさがれた。
それだけなのに、血の気が一気に顔に集まるのが分かる。
「っ……!」
「力を抜いてください。
今は抵抗しなくて大丈夫です」
そんなこと、無理だった。
だって、近い。
距離が近すぎる。
視線を上げれば、すぐそこにノアの胸元がある。
少し顔を上げれば、顎の線、喉仏、落ちる影。
(……無理。これは無理)
呼吸が重なるほどの近さに、心臓が、思い切り跳ねる。
「……身体が固定されている場合は、一気に脱力して相手の隙を作ってください。
両手が空いていれば、相手の内肘を狙います」
彼のいつもよりワントーン低い声が耳元をくすぐる。
「……はい」
返事をした声が、思ったより上ずってしまった。
そっと深呼吸をする。
これは訓練。
守ってもらうためじゃなく、自分が隣に立つための一歩なのだから。
「エリシア様?」
ノアが首を傾げる。
「……だ、大丈夫です」
私はノアに言われた通りに内肘を思いっきり手首で打って脱出した。
「よく出来ました!」
そう言うと、ノアは満面の笑みを浮かべる。
先程までの男らしい強引な姿とのギャップに鼓動が高鳴った。
「では、次は背後から襲われた時にしましょう。
では、この状態から――」
言いながら、ノアは私の背後に回った。
「!?」
息が止まる。
「全体重を乗せて相手の足を踏みつけると、相手は足を引きます。
そこで相手の顔面に頭突きするといいです」
背中越しに感じる体温。
肩越しに伸びてくる腕。
吐息が、耳元にかかる。
集中しないといけないのに、頭が上手く回らない。
「ですが、相手の手を自由にさせてしまうと厄介です。
なので――」
指導のために、私の手首を引き寄せる。
完全に後ろから抱きしめられたようになった私の心臓は高鳴りすぎて、聞こえてしまうんじゃないかと不安になる。
「っ……」
違う、集中しないと。
私はここに、きちんと学びに来たんだ。
「……エリシア様、力が入っています」
優しい声で、そんなことを言わないでほしい。
「ご、ごめんなさい」
震えないように必死で答える。
「緊張されていますか?」
「……はい」
正直に言った瞬間、背後の気配が、ほんの少しだけ戸惑ったように揺れた。
「……急でびっくりしましたよね」
ノアは一歩、距離を取る。
さっきまで近すぎて焦っていたのに、その一歩が、なぜかひどく名残惜しくて、胸がぎゅっと締めつけられた。
――違う。
それを望んではいけない。
「いえ!続けてください!」
ノアは一瞬だけ私を見つめ、
それ以上は何も言わず、指導を続けた。
その真剣な横顔が、
また、胸を締めつける。
――こんな距離で、平然としていられるなんて。
きっとノアは、何も気づいていない。
私の心臓が、今にも壊れそうだなんて。
「では、正面から獲物を持った輩が来た時を想定しましょう」
だけど、こんなふうに近くで、真剣に向き合ってくれることが、どうしようもなく、嬉しかった。
夕暮れの訓練場で、私は自分の恋心を抑えるのに必死になりながら、護身術を身につけた。
――――――――――
一日の終わり、侍女達が役目を終えて部屋の扉が閉まった瞬間、張りつめていた糸が切れた。
侍女に声をかけられても、曖昧に笑ってやり過ごし、夜着に着替えた途端、私はそのままベッドに倒れ込んだ。
柔らかな寝台が、身体を受け止める。
「……はぁ……」
情けないほど長い息が、唇からこぼれた。
目を閉じた途端、思い出す。
ノアの手。
近すぎた距離。
耳元に落ちた低い声。
――だめ。
思い出しちゃ、だめなのに。
枕に顔を埋める。
胸が、うるさい。
心臓が、まだ落ち着かない。
「……何やってるの、私……」
自分に向けた小さな声が、夜に溶ける。
私は皇女だ。
生まれた瞬間から、立つ場所も、進む道も決められている。
恋なんて、
ましてや相手がノアだなんて――
考えること自体、許されない。
幼馴染で。
守ってくれる人で。
……掟で、結ばれない人。
「分かってる……」
分かっているのに。
今日、ノアが教えてくれた護身術はただの訓練だった。
触れたのは、必要だったから。
近かったのは、指導のため。
特別な意味なんて、ひとつもない。
――それなのに。
布越しに感じた体温を、
声の低さを、
真剣な眼差しを、
どうしても、忘れられない。
「最低……」
枕に顔を押しつけたまま、呟く。
彼は何も知らないのに。
私だけが、勝手に期待して、勝手に苦しくなって。
守ってもらうことにも慣れすぎているくせに、今度は隣に立ちたいなんて言って。
重い。
きっと、迷惑だ。
「……嫌だな、こんな自分」
指先が、シーツを掴む。
それでも。
――あの日。
「隣に立ちたい」と言った私を、
否定しなかった。
拒絶もしなかった。
それだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ずるい」
否定されなかったことが、
こんなにも、嬉しいなんて。
私は、枕を抱きしめた。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
苦しいのに、
幸せで、
どうしようもなく、満たされてしまう。
たとえ、想いが届かなくても。
たとえ、この恋が名前を持たなくても。
それでも、近くにいたい。
「……ばか」
そう呟いて、目を閉じる。
自己嫌悪と、幸福が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まって、涙が滲んだ。
それなのに、夕暮れの訓練場で感じた温もりが、夜の静けさの中でもまだ消えなかった。




