黄昏の距離
side ノア
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公務が一段落した後、ノアは皇太子宮へと続く回廊を歩いていた。
傾き始めた陽が、窓辺を橙色に染めていた。
昼の名残と夜の気配が混ざり合うこの時間は、どうしても心を不安定にする。
何かを失ったわけでもないのに、胸の奥がひっそりと冷えていく。
エリシアの執務室の扉の前で、ノアは一度だけ呼吸を整えた。
二週間と数日。
意図的に距離を取っていた時間だ。
――会わない方がいい。
そう判断したのは、自分自身だった。
黒幕だけではない。
革新派や保守派、あらゆる立場から向けられる視線――
だが、理由はそれだけではなかった。
あの日を境に、胸の奥で育ち続ける思いを、いつまで理性で押さえ込めるのか、分からなくなっていた。
軽くノックをすると、すぐに声が返ってくる。
「どうぞ」
扉を開けると、書類に囲まれた机の向こうで、エリシアが顔を上げた。
「え!あ!ノア!?」
ノアの姿を見て、あからさまに慌てる彼女が可愛かった。
以前から、彼女がノアを見る時、どこか特別な色を帯びた視線を向けていた。
幼い頃から知っている。
尊敬や憧れ――そういう類のものだ。
だから、今のこの落ち着かない様子も、久しぶりだから。
それ以上の理由はないと、自分に言い聞かせた。
「急にお訪ねしてすみません」
いつも通り振る舞うと、彼女はぎこちなく答えた。
「い、いえ。こちらこそ……」
エリシアは立ち上がり、何か言おうとして、言葉を探すように視線を泳がせる。
その仕草がひどく不器用で、思わずクスッと笑うと、彼女は慌てて取り繕おうとして積み上げられていた書類を崩してしまった。
「あっ――」
ばさり、と床に散らばる紙。
「やっちゃった!」
慌てて身を屈めたエリシアと、同時にノアも動く。
紙を拾い上げようとした指先が、自然と触れ合った。
「あ……」
顔を上げた瞬間、思っていたよりも近い距離に彼女がいた。
その息遣いが分かるほどに。
「ご、ごめんなさい!」
追い打ちをかけるように、慌てて立ち上がった彼女の足が、紙を踏んでわずかに滑る。
「きゃ……」
ノアは反射的に腕を伸ばし、体を支えた。
気が付けば、彼女を抱き留める形になっていた。
これまでも、抱きしめたことは何度かある。
命の危険が迫った時、涙を止めるために、ただ支えるために。
けれど今は、理由が違う。
自分の気持ちが、曖昧すぎる。
「……大丈夫ですか」
感情をできるだけ抑えた声で問いかける。
エリシアは数秒、固まったまま動かず、それから小さく頷いた。
「……はい」
その声が震えていることに、気付かないふりをした。
ノアはすぐに体を離そうとした。
だが、その瞬間、エリシアの指先が無意識に彼の衣を掴む。
一瞬だけ。
それだけで、胸の奥がひどくざわついた。
「……エリシア様」
名を呼ぶと、彼女ははっとして手を離して距離をとる。
「ご、ごめんなさい……」
言葉を濁し、視線を伏せる彼女の頬が赤く染まる。
――緊張しているだけだ。
久しぶりに会ったから。
変な期待をしてはいけない。
彼女にとって、自分はアルヴェイン公爵家の人間でしかない。
憧れや信頼と、恋情を混同するほど、彼女は幼くない――
そう思うことで、胸のざわめきを切り捨てた。
ノアは拾い集めた書類を机の上に整えながら、本題に入る。
「本日は、今後のことについてお伝えに参りました。
近く、五年前の事件の調査に向かう予定ですが、エリシア様も同行されますか?」
その言葉にエリシアは目を瞬かせた。
「いいの……?」
「はい」
その言葉に、彼女の表情がわずかに引き締まる。
「ありがとうございます」
ノアは頷いた。
「皇帝陛下からも正式に許可が下りました。
表向きにはエルダールで身辺整理と言いますか、お礼参りということにしています。
ですので、王太子殿下も同行されます」
エリシアは少し驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「……ハルも一緒なら、心強いですね」
その言葉に、胸の奥で何かが静かに沈む。
彼女の想いは彼に向いている。
エルダールで二人は困難を共に乗り越え、思いを確かめたんだ。
それは当然だ。
ノアは何も無かったように淡々と続ける。
「本来であれば、皇女殿下が指揮を執るお立場ですが、安全の為に私が指揮を取ります。
よろしいでしょうか」
「それはもちろんです。
……危険な旅になりますか?」
「可能性は否定できません」
正直に答えると、エリシアは一瞬だけ唇を噛んだ。
「それでも……行きたいです」
迷いのない声。
その強さに、ノアは目を伏せた。
――だからこそ、守らなければならない。
「わかりました。
では、そのつもりで計画を進めます」
「お願いします」
「はい。では、失礼します」
指先に残る、先ほどの温もりを、なかったことにするように部屋を出ようとした時。
「ノア」
不安げに絞り出したような声で名を呼ばれる。
振り返ると、彼女が震える指で上着の裾を引っ張っていた。
「迷惑をかけていることは分かっています。
でも……ノアに守ってもらってばっかりじゃなくて、私もノアを守りたいの。
だから……」
エリシアは顔を上げて、ノアの目を真っ直ぐに見た。
決意に揺れる緑の瞳がペリドットの宝石のように輝いた。
「遠ざけるんじゃなくて……
私を、ノアの隣に立たせて」
夕陽が彼女の顔を優しく照らす。
指先は拒絶されることを恐れて震えているのに、その眼差しは強く、逃げることを許さない。
ノアはどう答えていいかわからなかった。
これまで、彼女を危険から遠ざけることが彼女を守ることになると信じて疑わなかった。
それに、守ると決めた相手に守りたいと言われたことにも衝撃を受けた。
「急に言われても難しい……ですよね。
私、努力します。
ノアの横に立てるように」
彼女の言っている意味を理解するのに、少し時間がかかった。
皇族であり、いずれ皇位を継ぐ立場にある人が、
絶対的に尊い立場で、守られるべき人が、
自分の隣に立つために努力するなんてあり得ない話だ。
「努力するべきなのは私の方です」
ノアの返事にエリシアは小さく首を振る。
「皇女としてではなく、一人の人としてノアと対等に立ちたいの」
その言葉は、願いというよりも、宣言に近かった。
ノアは、ただ見つめ返すことしかできなかった。
彼女を守るために引いてきた線が、
今、静かに書き換えられていく気がしたからだ。
それが正しいのか、間違っているのか。
答えは出ない。
けれど――
彼女がここまでの覚悟を抱いていることだけは、否定できなかった。
沈みきらない夕陽が、二人の間に長い影を落としていた。
それが許されない距離であることを知りながら、
同じ夕暮れの中に立っているという事実だけが、
ノアの胸を、どうしようもなく揺らしていた。




