報告
side ノア
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宮廷の奥深く。
灯りを最小限に落とした執務室には、外の喧騒が嘘のように届かなかった。
扉が閉じられた瞬間、空気が一段、冷える。
まるで外界と切り離されたかのような静寂だった。
ノアは机の前に立ち、窓の外を見ていた。
月光を背にしたその背は微動だにせず、感情の起伏を拒むように静かだ。
「……失礼いたします」
その背に向かって、キースが深く頭を下げる。
胸の奥に沈む重さを、彼は隠しきれずにいた。
「何かありましたか?」
ノアの声は穏やかだった。
だが、どこか低く、感情を削ぎ落とした響きがある。
キースは一度だけ呼吸を整え、報告を始めた。
「少し前から、皇女殿下が五年前の事件をお調べになっています」
「禁書庫にて、『皇太子一家襲撃事件記録』を閲覧されました」
ノアの表情は変わらない。
だが胸の奥で、冷たい水が静かに満ちていく。
――そこは、彼女に踏み込ませるつもりのなかった場所だ。
山賊による偶発的襲撃。
公式にはそう断じられた結論。
だが実際には、側近しか知らぬ移動ルートでの計画的な足止め。
近衛兵と拮抗する技量を持つ襲撃者たち。
あの日の現実と、紙の上の結論は噛み合っていなかった。
それでも、知らせなかった。
これ以上、血と影を背負わせないために。
「既に、ジャイロ家に関する裁判記録、領地再編の文書まで確認されています」
淡々としたキースの声が、容赦なく続く。
使用人たちが最後に目撃された村。
事件後、密輸の罪で断罪され、口を閉ざした一族。
――そこから先は、誰にも踏み込ませないはずだった。
「これ以上立ち入らぬようお止めしましたが、その後も調査を続けられ、先日の示談の件にまでたどり着かれています」
キースは、そこで言葉を切った。
護衛として犯した過失を、彼自身が最も理解していた。
「……判断を誤りました」
深く、頭を下げる。
「もっと早く、ご報告すべきでした」
静寂の中に、低い声が落ちる。
「……そこまで、ですか」
驚きではなかった。
理解に近い、静かな受容だった。
「早いですね。
あの資料から、どうやってジャイロ男爵に行き着いたのでしょう」
「……資料に、紙切れのようなものが挟まれていたようです。
皇女殿下が隠されたため詳細は分かりませんが、それを見てから男爵家を調べられていました」
ノアは、ほんの僅かに目を細める。
「……紙切れ、ですか」
「はい」
「回収は可能ですか?」
「不法侵入をすれば……」
「では、こちらで対処します」
即断だった。
キースは一瞬だけ躊躇し、別の報告を口にする。
「別件ですが……数日前の面会以降、ハルシオン殿下が、エリシア様に私的に接触されています」
月明かりが、ノアの横顔を照らした。
「報告、ありがとう」
表情は穏やかだ。
だが、その瞳には一切の温度がなかった。
「護衛の数を倍に」
淡々と告げる。
「影も動員しましょう。
負担を分散できるでしょう」
キースは思わず息を呑んだ。
「ですが、それでは……」
ノア自身の護衛が削られる。
その言葉を遮るように、ノアは告げた。
「いつも言っていますが、私に護衛は必要ありません」
「ですが!」
「キース。命令です」
鋭い視線が、空気を切る。
「……ノア様」
キースは、すがるように言った。
「ノア様が皇女殿下を失いたくないように、公爵家の皆も、ノア様を失いたくありません!」
ノアは小さく息を吐く。
分かっている。承知の上だ。
それでも――
彼にとって自分の命は、取るに足りない。
「エリシア様は、一度決めると止まりません」
ノアの声は、どこか痛みを帯びていた。
「……彼女を、危険に晒すわけにはいかないのです」
彼の脳裏に、エルダールで最後に見た彼女の後ろ姿が浮かぶ。
危険と孤独を前にしても、迷わず背を向けたあの決断。
彼女が、どれほど容易く自分を置いていくかをノアは知っていた。
「皇女殿下とノア様は、よく似ていらっしゃいます……」
キースは視線を落とす。
「どれほど危険でも、一度決めたら行動されてしまう」
そして、静かに続けた。
「ですが――
殿下をここに留めれば、逆に敵の手に落ちる可能性があります。
それなら同行し、ノア様ご自身の目の届くところで護衛する方が……」
沈黙が落ちた。
やがて、ノアは苦く笑った。
「……分かりました。
条件付きで認めましょう」
そう言うと、ノアはペンを取り、素早く書き付ける。
封筒に収め、封蝋を落とした。
「これを、ハルシオン殿下へ」
「承知しました」
踵を返しかけたキースは、ふと立ち止まる。
「……皇女殿下は、ノア様に置いていかれることを、何より恐れておられます」
ノアは答えなかった。
だが、その背中は、先ほどよりも重く見えた。
扉が閉じ、執務室に再び静寂が戻る。
ノアは月を見上げたまま、しばらく動かなかった。
(……もう、守られてばかりでは居てくださらない)
五年前。
恐怖に怯え、彼の背に隠れていた少女。
ずっと手を引き、守ってきた存在。
(強くなられた……)
ゆっくりと息を吐く。
怒りでも、安堵でもない。
例えるなら、焦燥感だった。
彼女はもう、守られるだけの存在ではない。
真実へ辿り着こうとする、明確な意思を持ってしまった。
誇らしくて、もどかしい。
「……今度こそ」
声が、わずかに震える。
「……守らせてください」
それは、祈りに近い独白だった。




