反抗
「――それ以上は、駄目ですよ」
驚いて振り返ると、書架の陰からキースが姿を現した。
近衛騎士の正装。
背筋を正し、無駄な動きのない立ち姿。
普段のように冗談を言う彼ではなく、皇女付き近衛騎士の顔だった。
「……キース?」
思わず名を呼ぶと、彼は小さく片膝を折り、形式通りに礼を取る。
「皇女殿下。
本来であれば、ここにお一人で立ち入ること自体、危険です」
咎めるような口調ではない。
けれど、普段の彼とは違いすぎて、落ち着かない。
「でも、これは――」
「分かっています」
私の言葉を、彼は静かに遮る。
「殿下が知ろうとしていることも。
そして、それがどれほど重要なことかも」
その視線が、一瞬だけ、私の手元――
閉じたままの『皇太子一家襲撃事件記録』に落ちた。
「……なら、なぜ止めるの?」
問いかけると、キースはわずかに息を吐いた。
「これ以上先は、調べるという段階ではありません」
淡々とした声。
けれど、その言葉には、確かな重みがあった。
「殿下が今、たどり着いた場所は――
既に、誰かが“隠した真実”の縁です」
彼は一歩だけ、距離を詰める。
「ここから先は、知ろうとした者が消える領域です」
背筋に、冷たいものが走り、指先が、無意識に本の縁を掴んでいた。
「止めるのは……ノアの、判断?」
そう口にすると、キースは否定も肯定もしなかった。
ただ、静かに目を伏せる。
「俺は、殿下の護衛です。
命令はただ一つ――殿下を生かすことです」
それは、忠誠の言葉であり、同時に警告だった。
「今は、ここまでにしてください。
続きを知る必要があるなら……」
キースは顔を上げ、真っ直ぐに私を見る。
「必ず、私たちが真実を解き明かし、伝えますから」
私はしばらく黙ったまま、彼を見つめていた。
悔しさもある。
けれど、それ以上に――
彼らが、私の知らないところで、どれほどの覚悟を背負っているのかを感じてしまった。
ゆっくりと、私は本を棚に戻す。
「……分かりました」
そう答えると、キースはわずかに安堵したように、息を吐いた。
「感謝します。殿下」
(ごめんなさい。
でも、もう、知らないふりはできない)
この違和感の先に、ノアが一人で背負ってきた五年間があるのなら。
それを、見過ごすことはできない。
私は、それ以降も護衛を巻くようにして図書館や分館書庫に通い、必要な文章を自室に持ち帰って調べるようになった。
公務を終えた後、音を失った皇太子宮で記録を読む。
蝋燭の芯が微かに弾ける音さえ、やけに大きく響いた。
――本当は、こんなことをするべきではない。
そう思いながらも、私はページを繰る手を止めなかった。
キースに止められたことを、正確にはノアに止められたことを、忘れてはいない。
それでも。
何も知らされないままでいることの方が、耐えられなかった。
机に広げたのは、ジャイロ家に関する裁判記録。
密輸の罪で断罪された名門貴族の、最終審理の写しだった。
――否認。
視線が、その一語で止まる。
ジャイロ家当主は、最後まで容疑を認めていない。提出された証拠の多くに対し、具体的な反証も行っている。
にもかかわらず。
「……証拠が、揃いすぎている」
思わず呟きがこぼれた。
帳簿、証言、物証。
どれも決定打として申し分がなく、まるで最初から“有罪”という結論に向かって積み上げられたかのようだった。
偶然にしては、整いすぎている。
嫌な予感を覚えながら、私は次の束を引き寄せた。
ジャイロ家断罪後の、領地再編に関する記録。
引き継ぎ先――レイバン家。
そして、その名の横に書かれていた人物に、息を呑む。
「……アンナ・レイバン」
皇太子候補であったアドルフ・ドゥーカスの妻、アンナ・ドゥーカスの事だ。
レイバン家の令嬢であり、婚姻によってその領地はドゥーカス家の一部となっていた。
点が、線になり始める。
さらに最近の公文書を追っていくうち、決定的な一文を見つけた。
『示談成立。アルヴェイン公爵家は、当該領地の引き渡しを希望』
胸が、ひどく静かに鳴った。
あの指輪盗難事件の示談交渉で、アルヴェイン公爵家は旧ジャイロ男爵領の譲渡を希望している……。
「……ノアも、この土地を調べようとしている」
確信に変わった瞬間だった。
つまり、ノアは既にここまで辿り着いている。
だからこそ、動くつもりなのだ。
――置いていかれる。
その予感が、胸を締めつけた。
彼が危険な場所へ向かうことを、知っていながら。
自分だけが、皇宮に残る。
それは、選べなかった。
文書を閉じた、そのとき。
「……エリシア」
諭すような低い声がした。
そこにいたのはハルだった。
「ど!どうしてここに?」
「何度もノックをしたし、声もかけた。
それに、公的な窓口から面会を申請していたはずだが」
彼は腕を組み、困ったように眉を寄せている。
(やってしまった!)
そういえば、今日は夕食の後にハルが来てくれる予定だった。
それも私的なものでは無く、公的な面会だ。
「侍女たちも心配していたぞ」
「ごめんなさい!」
私的な調べ物に執着し、公的な面会をすっぽかすなんて……。
皇族としてあるまじき失態だ。
「また、だな」
ハルは少し口角を上げるようにして笑う。
「……また、って?」
「神殿にいた頃も、そうだった。
誰にも言わずに、一人で調べようとする」
図星だった。
私は一瞬、言葉を探し、それから小さく息を吐く。
「……止められるって、分かってたから」
「公爵に?」
私は小さく頷く。
正確にはもう既に止められているのだ。
ハルはこちらに歩み寄り、声を落とした。
「危ないことをするなら」
彼の金色の瞳が真剣な光を帯びて、私を見る。
「せめて、一緒にやらせろ。
お前は止めても隠れて突っ走るだろ。
知らない所で無茶をするな」
私はしばらく彼を見つめていた。
彼は他国の王太子だ。
危険に巻き込むことも、帝国の極秘事項を伝えることも本来は許されない。
だけど、真実を知りたい。
きっと、断れば彼は止めるだろう。
そう悟り、静かに頷いた。
「……ありがとう、ハル」
「あぁ」
その瞬間、二人とも理解していた。
この先に必要なのは“調査”ではなく、“覚悟”なのだと。




