皇太子宮
翌日、私は皇太子宮へ戻った。
皇帝陛下に自らの身の上を明かしてから、まだ数日しか経っていないというのに、ベネット侯爵を中心に、侍女や使用人の手配は驚くほど迅速に整えられていた。
最初は侍女にサーシャの名前を出したが、他国の平民女性を、いきなり皇宮付きの侍女に任じることなど、前例がなく認められるはずがない。案の定、彼女は見習いから始めることになった。
それでも――。
「必ず!セラ……エリシア様の元で働けるよう精進します!だから……待っていてください!」
そう言ってくれた彼女の眼差しは、迷いのない、真っ直ぐなものだった。
ハルと共に故郷エルダールへ帰るという選択肢も、彼女にはあったはずだ。
それでも彼女は残ることを選んだ。
その想いが胸に沁み、私は静かに頷いた。
(……私も、負けていられない)
皇女として、ここに立つ覚悟を、もう一度胸に刻む。
皇太子宮は、いつ誰が戻ってきてもいいようにと、常に手入れが行き届いていたらしい。
五年という歳月が嘘のように、そこは変わらぬ姿で私を迎え入れた。
私は、ゆっくりと扉に手をかける。
軋みひとつ立てずに開いたその先には、かつてと同じ静謐が満ちていた。
まるで時だけが、この場所を避けて流れてきたかのようだ。
高窓から射し込む陽光が回廊を淡く照らし、白い床に長い影を落とす。
壁に掛けられた織物も、漂う香のかすかな匂いも、すべてが記憶の奥と重なった。
思わず足を止め、柱に指先を触れる。
冷たいはずの石肌に、なぜか微かな温もりを感じた。
(……陛下と皇后陛下が、この場所を守ってくださっていたのね)
その想いが胸に沁み、私は静かに息を吐いた。
自室の扉を開いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
カーテンは新しく替えられている。
けれど、机の上には昔と同じ花瓶が置かれ、寝台脇の棚には、母が愛用していた香油の瓶まで残されていた。
時間だけが流れ、部屋そのものは、私の帰りを待ち続けてくれていたのだ。
鏡台に腰を下ろす。
磨き上げられた鏡に映るのは、かつての幼い少女ではない。
ひとつの国を背負う覚悟を宿した、皇女の顔だった。
引き出しを開けると、エメラルドの髪飾りと耳飾りが並んでいる。
母が好んで身につけていた宝石。
私よりも少し深い緑の瞳をしていた、母の瞳と同じ色。
そっと髪飾りを手に取ると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。
「……お母様」
思わず零れた声は、わずかに震えていた。
この宮殿を守り続けてくれた皇帝陛下夫妻の想い。
そして、ここで過ごした家族の記憶。
すべてが胸に押し寄せ、私はそっと目を閉じる。
「……ただいま帰りました」
その呟きは、静かに部屋に溶けていった。
しばらくして、ノックの音が部屋に響いた。
「……殿下、お迎えに上がりました」
扉の向こうから聞こえたノアの声に、心臓が跳ねる。
一瞬、感情が溢れそうになる。
けれど、すぐに深く息を吸い、皇女の顔を作った。
「どうぞ」
扉が開き、ノアが姿を現す。
その眼差しは、どこか懐かしさを帯びていた。
「……昔に戻ったようですね」
「ええ。私も、そんな気持ちになりました」
短い沈黙。
「ですが……エリシア様は、とてもお綺麗になられました」
その言葉に、頬が熱を持つのを感じる。
「ありがとう……ございます」
ノアの視線が、自然と私の手元に落ちた。
「アメリア様のものですか?」
「はい」
彼は一歩近づき、穏やかに微笑む。
「よろしければ……お付けしましょうか」
小さく頷くと、ノアは髪飾りを受け取り、そっと私の髪に触れた。
耳元をかすめる指先が、くすぐったくて、胸がふわりと浮く。
恥ずかしいのに――離れてほしくない。
触れてほしいと願ってしまう自分に戸惑いながらも、この時間が終わらなければいいと、心のどこかで祈っていた。
矛盾だらけなのに、恋しくてたまらない。
――それは、もう“敬愛”や“信頼”では説明できない感情だった。
「……できました」
鏡を覗くと、先ほどまで手にしていた髪飾りが、静かに輝いている。
「ありがとうございます」
「……とても、お似合いです」
その言葉を胸に受け止めながら、私は小さく微笑んだ。
この想いは伝えることができない。
それでも――
確かに、ここにある。
皇女として歩き出す私の胸に、誰よりも大切な温もりとして。




