謁見
side ノア
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夜明け前の皇宮は、まるで呼吸を止めた生き物のように静まり返っていた。
天井の高い回廊に、靴音が淡く反響する。
それは二人分の足音のはずなのに、ノアには自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえていた。
先を歩くベネット侯爵の背は、老いを感じさせぬほどに伸びている。
白髪の奥に宿る矜持が、その背中を支えているのだと、嫌でも分かった。
――帝国の過去と、責任をすべて背負おうとする男の背だ。
重厚な扉の前で、近衛兵が一歩進み出る。
「アルヴェイン公爵並びにベネット侯爵、到着いたしました」
一拍の沈黙。
そのわずかな間に、空気が張り詰める。
「……通せ」
扉が開いた瞬間、ノアは息を詰めた。
玉座の間の空気は、外とは別のものだった。
重い。冷たい。逃げ場がない。
圧――
それは威嚇ではなく、長年「帝国そのもの」として在り続けた男の存在が生む重さだった。
玉座に座す皇帝は、微動だにせず二人を見下ろしている。
視線を向けられているだけで、背筋に冷たいものが走った。
「この国難の折、このような場を設けさせたのだ。
それ相応の理由でなければ、いくら貴殿と言えど――追及は免れぬぞ」
その声に、私情はない。
あるのは、王としての責務だけ。
「陛下にお伝えしたいことがございます」
「申せ、アルヴェイン公爵」
ノアは一歩前へ出る。
「五年前、皇太子一家襲撃事件にて行方不明とされた皇女――
エリシア殿下が、生存されております」
言葉が、石畳に落ちるように響いた。
重々しい声が、謁見の間に響く。
いつもは温厚な皇帝の目が、今は細く鋭く光っていた。
玉座の間に、張りつめた沈黙が広がる。
「……エリシア殿下は現在、隣国エルダール使節団の“セラ様”として、帝都に滞在されています」
「あの子が……」
皇帝が、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳に、かすかな光が戻ったのを、ノアは見逃さなかった。
(――よかった)
心の奥で、誰にも知られぬほど小さく息を吐く。
「本来であれば、事件の真相を究明してからお連れする予定でした。
ですがエリシア皇女殿下ご自身が、帰国されることを選択なされました」
次に、ベネット侯爵が一歩前へ出る。
「陛下。五年前、我が家はエリシア殿下を匿い、アルヴェイン公爵と共に亡命を手引きいたしました。
その役を担ったのは、我が息子フレディでございます」
その後、この一年間で少しずつ集めた彼女が皇女である物証を差し出す。
それらを一点ずつ確認した皇帝は、すぐには答えを出さなかった。
長い沈黙ののち、低く――呟くように声を落とす。
「……そうか」
その視線が、今度はノアに向けられる。
「……黙っていたのだな」
逃げ場のない視線。
だがノアは、ひるまなかった。
一歩前に出て、膝をつく。
「恐れ多くも、公女殿下の命を最優先に考え、
罰せられることも覚悟の上で、伏せておりました」
皇帝の口元が、わずかに歪んだ。
それは笑みというより、深い疲労と諦観だった。
「……お前の祖父は、知っておったのか」
「はい」
「そう、か……」
エリシアやレオン、そしてノアと――
今は亡き皇太子フェリックスと先代公爵ロペスがそうであったように。
皇帝と祖父もまた、幼い頃から共に過ごし、支え合ってきた。
きっと、良き友であったに違いない。
皇帝はその友を、
本人の申し出とはいえ、皇族を守れなかった罪で処刑した。
胸中を察することはできても、
その悲しみの深さを測ることなど、誰にもできない。
「……アルヴェイン家には敵わんな」
哀愁の滲んだその言葉に、返す声はなかった。
やがて皇帝は、ゆっくりと顔を上げる。
「して、エリシアは今、どうしておる」
皇帝の質問にノアは視線を伏せて、小さく息を吐いた。
「……皇太后陛下とお茶を共にしておられたのは、私ではなくエリシア殿下です。
皇太后陛下と共に毒を口にされましたが、先程意識を取り戻され、
皇女として戻られる決意を固められました」
玉座の肘掛けに置かれた指が、静かに動く。
「待て。つまり――エリシアも毒を飲んだのだな」
「はい」
「……大丈夫なのか」
「長く眠られていたため、回復が最優先ではありますが、
現在は落ち着いておられます」
「そうか……」
皇帝は、安堵とも取れる息を吐いた。
「では、明日の午後にでも皇后と共に会いに行こう」
その言葉に、ベネット侯爵が目を見開く。
「陛下自ら、ですか」
「あぁ。やっと、孫娘に会えるのだ。
できるだけ早く顔を見たい。
だが――無理はさせたくない」
「承知致しました。準備を整えます」
ノアが答え、頭を下げる。
「アルヴェイン公爵、顔を上げよ」
皇帝は玉座の段を下り、ノアの前に立った。
「君が守ってくれたのだな。
……ありがとう」
「いえ。何度も殿下を危険に晒しました。
申し訳ございません」
「公爵。
これからもエリシアを守る盾であり、剣であってくれるか」
ノアは、迷いなく答えた。
「もちろんです」
その声に、揺らぎはない。
「殿下が再び皇族として歩まれるのであれば、
その危険も、非難も、孤独も――
すべて、私が引き受けます」
皇帝の目が、わずかに見開かれる。
その瞳に映っていたのは、かつて唯一の友であった先々代アルヴェイン公爵――ノアの祖父だった。
「……血は争えぬな」
再び、沈黙。
やがて皇帝は、深く息を吐く。
「では、エリシアを正式に皇宮へ迎え入れる。
アルヴェイン公爵は、彼女の従者として再び支えよ。
ベネット侯爵は、こちらの準備を手伝ってくれ」
侯爵が、深く頭を下げる。
「承知しました。まずは信用のおける者たちを集めます」
信用のおける者――この五年間、理由も問わず、中立を貫いた者たち。
皇帝は、ノアと侯爵の肩に手を置いた。
「頼んだぞ」
そう言って、背を向ける。
その背に、ノアは静かに誓う。
(必ず――)
彼女を、この方の後継者として立たせる。
そして、二度と独りにはしない。
たとえ、自分が光の外に立つ存在になろうとも。




