報われない恋
しばらくして、控えめなノックの音がした。
「入るぞ」
「……どうぞ」
扉が開き、ハルが入ってくる。
その表情は硬く、けれどどこか覚悟を決めたようでもあった。
まるで、これから交わされる言葉を、すでに予期していたかのように。
「……目が覚めて、よかった」
「うん。
ずっと、ついていてくれたと聞きました。ありがとうございます」
「その喋り方、やめろ」
「……うん」
それきり、言葉が途切れる。
沈黙が、静かに部屋を満たした。
ハルは、きっと待っている。
私の口から、何かを告げられるのを。
話さなきゃ、と思うのに。
どこから切り出せばいいのか、分からなかった。
「……話したいことがあるんだろ」
低い声で、ハルが言う。
真っ直ぐな金色の瞳が、逃がさないように私を捉えた。
「……うん」
一度、息を吸って、吐く。
「私……皇女として、帝国に戻ろうと思ってる」
ほんの一瞬、空気が止まった。
「……そうか」
短い返事。
けれど、それだけで彼がすべてを理解したことが伝わってくる。
分かっている。
たとえ彼の望みと違っていても、ハルは私の選択を尊重してくれる人だ。
「だから……エルダールには帰れない。
あんなに良くしてくれたのに、ごめんなさい」
ハルは何も言わず、黙って聞いている。
私にとって、彼はかけがえのない存在だった。
できることなら、この先も友人としてずっと近くにいたいと思う人。
――だけど、私たちの立場が、それを許さない。
そう思っていたのに。
「……俺が、ここに残る」
「え……?」
思わず顔を上げる。
「だ、だめだよ!
ハルは一国の王太子でしょ。私情で他国に留まっていい人じゃない」
「勘違いするな」
低く遮られる。
「私情だけで言ってるわけじゃない。
お前が皇女に戻るなら、そうするよう国王に言われている」
一拍置いて、彼は続けた。
「……それとも。
俺が、いない方がいいか?」
「そんなことない!」
思わず即答してしまう。
「ハルがいてくれたら、心強い。
でも……」
言い淀んだその先を、彼は先回りするように言った。
「俺の気持ちには答えられないから、申し訳ない、か?」
胸が詰まる。
言葉にしなくても、沈黙そのものが答えになってしまう。
「……お前を困らせるつもりはない」
分かっている。
ハルは、感情だけで人を縛るような人じゃない。
「……公爵のことが、好きなのか?」
唐突な問いに、息を飲む。
声に出していいのか分からない。
けれど、あの想いに、もう嘘はつけなかった。
「……うん。ノアが好き。
でも……」
この想いは叶うことは無い。掟がある。
それに、アルヴェイン公爵家の者は、皇族への恋愛感情すら禁じられている。
私の思いは許されない。
この感情は、初めから間違っている。
「……じゃあ、俺にも、まだ……」
その続きを、私は遮ってしまった。
「私が皇太子に任命されたら、
エルダールに嫁ぐことは、もう出来ない」
本当は、こんな言い方をしたくなかった。
でも、ここで期待を持たせることは、優しさじゃない。彼を苦しめてしまう。
「……それでも」
ハルは、一歩、距離を詰める。
「それでも、そばにいたい」
金色の瞳が、揺るがずに私を見据える。
「どうして……」
「お前が、好きだからだ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
その気持ちは嬉しいけど、苦しい。
届かない想いの痛みを、私は知っている。
だからこそ、彼の気持ちには答えられない。
私が言葉を探していると、
「……思ってること、顔に出すぎだ」
そう言って、ハルは真っ直ぐに私を見た。
「心配するな。
恋情に溺れるほど、俺は軟じゃない」
金色の瞳が揺れることなく、鋭く光る。
「ただ、お前が俺やエルダールを救ってくれたように、
俺も、お前を助けたいだけだ」
「俺がいなくても、公爵はお前を守るだろう。
でも……エリシア。お前も、気付いてるはずだ」
低く、静かな声。
「公爵の危うさに」
胸の奥が、ひくりと痛んだ。
「この国で、あいつ支えたいのなら、
信頼できる人間が必要だろ」
彼は淡々と、現実を並べる。
「それに、俺がここに残れば、
当分は面倒な婚約者候補に付きまとわれずに済む」
「……婚約者候補?」
思わず聞き返すと、ハルは小さくため息をついた。
「お前は自分の立場に疎すぎる。
年頃の皇位継承者に、婚約話は付き物だ」
「その厄介さを、一番理解できる相手は、俺だろ」
その言葉にリシュエルの姿が浮かび、苦笑するしかなかった。
皇太子候補になれば、
私を利用しようとする人間が群がるのは、目に見えている。
「……それは、そうだけど……」
「それに、俺にはお前を口説く時間ができる」
彼は、ほんの少し笑って言った。
「……とにかく、そばにいろ。
俺に利用価値がなくなるまで」
「それじゃ、私がハルを利益で見てるみたいじゃない」
言い返そうとした、その瞬間。
ふわり、と温もりに包まれた。
「そういうとこ。隙だらけ」
茉莉花のような上品で甘い香りが鼻をかすめる。
(……流されちゃ、いけない!)
「こういうの、ダメだって言っているでしょ!」
「友人でも家族でもするだろ」
「確かに、そうだけど!私は駄目なの!」
そう言い切ると、彼は腕を緩めた。
「恋仲のふりが無理なら、友人としてならいいだろう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ、安堵する。
「……うん。友達としては仲良くしたいと思ってる」
その時。
再び、ノックの音がした。
「エリシア様」
扉の向こうから、キースの声がする。
彼にその名を呼ばれるのは初めてだが、不思議としっくり来た。
「ベネット侯爵がお見えです」
その声に、彼は、名残惜しそうに私の頭を撫でた。
「……帝国でお前を支える人間が、揃ったみたいだな。
俺も一旦、宿舎に帰って準備をする」
そう言って、立ち上がる彼の服を慌てて掴む。
「サーシャのこと、お願い」
「あぁ 分かっている」
何やかんやと言いながら、結局彼に頼っている自分に気付いていない訳じゃない。
でも、気持ちを切り替えなきゃ。
ここからは、文字通り、命をかけた皇位継承争いが始まるのだから……。




