喪失の夜
夜も深けてきた頃、洞窟の入口から、雨の気配が滲んでいた。焚き火の炎は小さく揺れ、湿った空気に溶けていく。
洞窟の入り口の方では、ノアが外を見つめていた。その横顔には疲労が滲んでいるのに、目だけは鋭く冴えている。
夜の闇を見据えるように――いや、己の中に生まれた焦燥を押し殺すように。
何かを守り損ねた痛みと、まだ守らなければならないものがあるという使命感。その狭間で、彼は立ち尽くしていた。
私はそっと口を開いた。
「ノア……話さないといけないことがたくさんあります……」
ノアがこちらを振り向く。その瞳の奥に、一瞬だけよぎったのは不安だった。
けれどすぐに彼はそれを隠すように、穏やかな顔を作る。――いつものように。
息を吸って、言葉を探す。けれど、どんな言葉も重すぎて、喉に引っかかる。それでも、伝えなければいけなかった。
「……お母様が……亡くなりました」
その瞬間、洞窟の空気が止まったように感じた。自分の声が、やけに遠くで響く。
ノアは、何かを言おうとして——それを飲み込んだ。拳を握りしめ、それでも表情を崩さない。
皇族を守る者としての誇りが、感情の奔流を押し止めていた。
ノアにとっても、皇太子妃は忠誠を誓った主であり、第二の母のように感じていた人だったのだ。
(私の次の言葉は優しい人を傷つける…。でも、それでも伝えなくてはならない……)
私は唇を噛み、震える声で呟いた。
「ノアの父君…アルヴェイン公爵も亡くなったと……」
ノアの肩が微かに震えた。
しかし彼は黙って頷き、火の中の小さな赤を見つめる。
その炎は、彼の胸の奥で燃える誓いのように、かすかに揺れていた。
「あのね…ウォード伯爵とレオンが、戻ってこないの。私が川を渡っている間にレオンがどこかに行ってしまって…お母様の所に行ってしまったのかもしれません……ウォード伯爵が探しに行ってくれましたが……」
言葉の途中で喉が詰まり、息が震えた。ノアはそっと私の隣に座った。濡れた外套からは冷たい匂いがしたが、その声はあたたかかった。
「……ウォード卿なら、きっとレオン殿下を見つけてくださいます。あの方は、そういう人です」
ノアの言葉は穏やかで、確信を帯びていた。
けれどその手のひらは小さく震えていた。
冷たさではない。恐れでもない。――それは、守れなかった者への悔恨だった。
「今は……待つしかありません。夜が明けるまで、ここに留まりましょう」
雨音が、洞窟の天井を優しく叩いていた。その音を聞きながら、私は小さく頷いた。
けれどノアは、焚き火の明かりの中でひとり、見えない何かを見つめていた。
――この夜を越えても、失ったものは戻らない。
それでも、生き残った者として、背負わなければならないものがある。
その覚悟だけが、彼を支えていた。




