自責の念
side ノア
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夜更け、灯りを落とした部屋でノアは一人、立ち尽くしていた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
足も、指先も、感覚が曖昧で――それでも、視線だけは寝台から離せなかった。
医師は「峠は越えた」と言っていた。
彼女は確かに生きている。
救えたはずなのに。
それでも、彼女に触れれば壊れてしまいそうで、けれど目を離すこともできず、ただそこに呆然と立っていることしか出来なかった。
まるで世界に一人だけ取り残されたかのように、静かすぎるほど静かだった。
かつて、全てを失いかけた夜と、同じ匂いをしている。
自分が、彼女を"また"危険に晒した。
護衛をつけた。
警戒もしていた。
毒や刺客といった危険は全て確認した――つもりだった。
それでも、足りなかった。
自分の判断の甘さが、
自分の読みの浅さが、
彼女の命を奪いかけた。
五年前の血の匂いと、叫びが蘇る。
自分がした判断で多くの者を亡くした。
守るために存在してきたはずの自分が、何もできなかったあの夜。
「……必ず、守ると……」
誓ったのは何だったのか。
アルヴェイン公爵家の人間として生まれ、
皇族に仕え、
命を捧げる覚悟で生きてきた。
なのに――
もし彼女を失ってしまったらという想像だけで、呼吸が浅くなり、視界が歪む。
五年前と同じだ。
何も変わっていない。
結局、自分はまた――
守ると決めた人を、危険に晒した。
「……何を、やって……っ」
声にならない言葉が、喉の奥で絡まる。
また、守れなかった。
それ以上の罪があるだろうか。
忠誠を誓う資格もない。
側に立つ価値もない。
張り裂けそうな痛みを隠すように胸元に手を置く。
そこには、五年前、自分を罰するためにつけた自ら痕が残っていた。
――烙印。
彼女を守れなかった自分を、忘れないために。
生きていることを許す代わりに、痛みを刻みつけた跡。
もう二度と同じことを繰り返さまいと誓った後であり、彼女を失う苦しみを火傷の痛みで消そうとつけた跡だった。
思考は、そこまでで止めた。
それ以上考えれば、また自分が壊れると分かっていたからだ。
アルヴェイン公爵家の者として、
冷静であることは義務だった。
だから今日もノアは宮廷に戻り、仕事をした。
いつも通りの顔で、いつも通りの判断を下した。
何事もなかったように振る舞えた自分が、彼女が今も眠っているこの現実と、どうしようもなく乖離している。
寝台の上で、エリシアの胸が小さく上下する。
そのたびに、胸の奥が締めつけられた。
ノアはその場にしゃがみこみ、寝台に手をつき、深く、深く息を吸う。
手の震えが止まらない。
エリシアの唇に触れた時の冷たさが、指先から離れなかった。
失ってはいけない大切なものが、目の前で消えてしまいそうで、怖くて仕方がなかった。
あなたのいない世界に何の価値が……。
指先が、無意識にシーツを掴んでいた。
触れてはいけない。
勝手に温度を確かめることすら、越権だと分かっている。
分かっているのに。
……生きている、と。
それを確かめたかった。
「エリシア様」
ついに、名を呼んでしまった。
返事はない。
当然だ。眠っているのだから。
それでも、胸の奥が、少しだけ緩んだ。
本当はずっと前に気付いていた。
皇族だから、皇位継承者だからではない。
彼女だから守りたかった。
皇族を守る家に生まれた。
そこに「感情」は必要ない。
だから、愛してはいけなかった。
愛してしまえば、
判断を誤る。
弱くなる。
今回のように。
――分かっていた。
最初から。
それでも、もう遅い。
彼女が目を覚まさなかったら、
自分は生きていてはいけない。
それほどの想いを、ノアはこの夜、逃げ場なく理解してしまった。
誰にも見せない場所で、
誰にも許されない感情を抱えたまま。
ただひとり、
壊れたまま、夜が明けるのを待った。
――――――――――
翌朝。
時刻を告げる鐘が、宮廷に規則正しく響いていた。
昨日の出来事が嘘だったかのように、世界は何事もなく動き出している。
ノアは宮廷の執務室の机に向かい、すでに書類に目を通していた。
背筋は伸び、髪は整えられ、指先の動きに迷いはない。
扉がノックされる。
「入ってください」
声は穏やかで、いつもと変わらない。
入室してきたのは、近衛隊長とブライアント子爵だった。
「お疲れ様です」
「皇太后陛下のご容態は変わりありませんか?」
ノアは視線を上げずに言った。
「はい。医師団の報告では、中毒症状の峠は越えています。
ですが、持病のコントール状態が悪く、意識は戻られていません」
「そうですか。引き続き面会は両陛下と主治医、護衛責任者に限定してください」
感情の入り込む余地はない、淡々とした指示を出す。
「はい」
その後に、近衛隊長が一歩前に出る。
「ご報告がございます。
昨日、公爵閣下が捕らえられた侍女ですが、尋問前に予め口に含んでいた毒を噛んで死にました」
「また、ですか……」
「申し訳ございません」
「いえ、こちらの話です」
ノアはその長いまつ毛を一瞬、思案するように伏せると、すぐに近衛隊長に向き直る。
「皇太后陛下の居室周辺を調べ直しましょう。
毒物検査は食事、香、衣類、贈答品すべて対象に。
それとここ最近、別宮に出入りした者の記録をもう一度、洗い直してください」
机に置かれた指先が、かすかに止まる。
「侍女の家族や交友関係も調べて貰えますか」
「承知しました」
「次に、公務の確認を」
皇太后の件は、公表されていない。
いつも通りに公務はこなさなければならない。
「あ!はい!」
返事と共にブライアント子爵が一枚の紙を差し出した。
「午前は評議会に続き、閉幕式の警護体制の確認があります。
午後からはアステラ国の使者との面会、皇帝派の集まりに、ドゥーカス大公爵と領地再編に関する最終確認ですね」
――止まらない。
世界が崩れかけた夜の翌朝でも。
ブライアント子爵が、恐る恐る口を開いた。
「公爵……顔色が悪いです。
少し、お休みを取られては……」
ノアは首を横に振った。
「不要です」
即座だった。
「私情で職務を滞らせるわけにはいきません」
“私情”
その言葉が、胸の奥で鈍く響く。
だが、表情は一切変わらない。
「それと――」
一拍置いて、ノアは続けた。
「皇太后陛下の件について、無用な憶測や噂が流れぬよう統制を。
公式発表は『体調不良』で統一してください」
全員が頷き、用件は滞りなく終わった。
「以上です。各自、持ち場へ」
人が去り、執務室に静けさが戻る。
扉が閉まった、その瞬間。
ロビンとキースが姿を現した。
公爵家の影だ。
ノアは手元の資料に目を落としたまま告げる。
「キースは一班、二班と共に引き続きエリシア様の護衛を。
ロビンは三班、四班と皇太后陛下に着いてください。
それぞれの交代は二人に任せます」
「ですが!それでは閣下の警護が……」
ロビンが講義の声を上げる。
「私は大丈夫です」
「確かに、アルヴェイン公爵家は皇家の盾です。
ですが、影は公爵家を守るためのものです」
「誰が異論を許しましたか」
二人とも息を呑んだ。
ノアの“静かな怒り”を、彼らは知っている。
「キース」
名を呼ばれ、キースは一歩進み出て膝を折る。
「エリシア様にはハルシオン殿下以外、単独で近付けないでください。
無論、医師や使用人も例外はありません。
少しでも近付こうとした者は、身分を問わず私に報告を」
ノアはそこで初めて顔を上げた。
その瞳は穏やかで、冷静で、揺らぎがない。
昨夜、壊れていた男と同一人物だと、誰が思うだろう。
「承知しました」
キースとロビンが部屋を去ると、ノアは、ほんの一瞬だけ、机に手をついた。
誰にも見せない、ほんのわずかな重さ。
それでも、すぐに背筋を正す。
――崩れるわけにはいかない。
自分が折れれば、彼女を守るものがなくなる。
ノアは窓の外に目を向けた。
朝の光は、容赦なく世界を照らしている。
(……まだ、眠っているのだろうか)
それだけを思い、思考を切り離す。
感情は、後回しだ。
後で、一人になってからでいい。
今は――
守るために、いつも通りでいなければならなかった。




