覚悟の違い
side ハル
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
頭が混乱していた。
腕の中で崩れ落ちた彼女と、テーブルの向こうで倒れ伏した皇太后。二人をどうするべきか――判断が、できなかった。
王太子として叩き込まれてきたはずの「非常時の思考」が、彼女を前にすると、音を立てて崩れていく。
「キース!いるか!!」
ハルは扉の前にいるであろう護衛の名前を叫ぶ。
叫んだ声は、思ったよりも嗄れていた。
扉が開き、キースが飛び込んでくる。
一瞬、目を見開いたが、すぐに状況を理解し吐かせると、腰元から小瓶を取り出した。
「帝国で手に入りやすい毒の可能性が高いです!
よく使われる中和剤はありますが……効くかどうかは……。
とにかく、こちらを!」
キースは小瓶をハルに手渡すと、もう一方を持って皇太后に駆け寄った。
ハルはエリシアの唇に小瓶を当てる。
だが、液体は喉へ届く前に、静かに零れ落ちた。
「頼む……飲んでくれ……」
祈るように呟いても、応えはない。
小瓶が空になったとき、胸の奥が、冷え切った。
絶望が襲った。
焦燥から手が震え、思考が上手く回らない。
彼女を失いたくない。
なのに――何も、できない。
その時、薬を飲ませ終え、皇太后を背負ったキースがこちらを見て、すぐにエリシアの首元に手を滑らせる。
「脈はしつもかりしています。
解毒剤は主も持っていますから!すぐに呼んできます!」
そのまま皇太后を背負ったキースが部屋を出て行った。
自分の手足から血の気が引いていくのが分かる。
――大切なものは、いつも掌から零れ落ちていく
「助けて……くれ……」
生まれて初めて、神に縋りたくなった。
何でもいいから……。
その時、ノアが駆け込んできた。
以前の舞踏会での完璧な貴公子が嘘のように血相を変えている。
彼は持って来た小瓶を手に取ると、迷いなく自分の口に含んでエリシアに口付けた。
自分も毒に冒される可能性がある行為。
それを承知の上で、彼は一切の躊躇を見せなかった。
(……俺は)
守っているつもりでいた。
彼女が“セラ”でいてくれる限り、隣に立ち、盾になれると信じていた。
(甘えていたんだ)
帝国が、これほどまでに危険な場所だと知りながら。
彼女の命が、こんなにも簡単に奪われようとする現実から、目を逸らしていた。
(身を守る知識も武力も無い俺が……)
だけど、目の前のこの人物は、その甘えを五年前に捨てたのだろう。彼女を守るためなら傍に居ないことすらを選択してしまえる程に。
(同じ想いでも……辿った道が違う)
「……殿下!ハルシオン殿下!」
ハルは自分の名を呼ぶ声に我に返る。
「悪い……続けてくれ」
「皇宮内で"セラ"としてエリシア様を療養するのは難しいです。
彼女をアルヴェイン家にお連れしてよろしいですか?」
口調こそ同意を求めているが、その瞳は一切の拒絶を認めていなかった。
「分かった」
「では、殿下も御足労をお願いします。ハルシオン殿下もあの場にいたとなると、エルダール王国にあらぬ疑いがかかるでしょう」
「あぁ、配慮に感謝する」
ノアはローブをハルに手渡した。
それを深く被って着いてこいということだろう。
その後、ハルはノアに促されるがままに、裏手に用意された馬車に乗り、アルヴェイン公爵家の皇都邸に向かった。
ノアは医師や使用人達へ的確に指示を出し、その足で皇宮へと戻って行った。
「エリシア様を……どうか、お願いします」
そう言って、何も出来ない俺にエリシアを託して……。
おそらく、彼女の傍を離れたくないだろう。
それでもアルヴェイン公爵家の者として、今の皇宮を離れる訳にはいかないのだ。
皇族に何かあれば、アルヴェイン公爵家は即応する。
それが、この家に課せられた役目であり、ノアはそれを逃げずに背負っている。
同時に、きっとノアの動きはあの場にいたエルダール王国のハルとセラを守るためでもあるのだろう。
ハルは、同じ歳、同じ王侯貴族として、ノアに格の違いを見せつけられた気がした。
ただ、あたふたするだけだった自分と、こんな状況の中でもエリシアの為に動き続けるノア。
どちらが彼女のそばに居るべきなのかは明白に感じられた。
エリシアは静かだった。
苦しそうに身じろぎすることもなく、ただ眠っているように見える。
そのことが、かえって胸を締め付けた。
少しでも目を離してしまえば、その間に呼吸を止めてしまうかもしれないと、何度も怖くなって、脈と呼吸を確認しては安堵するのを繰り返した。
外が暗くなった頃、扉が控えめに叩かれて、キースが入ってきた。
外套を脱ぎ、剣帯を外しただけの姿の彼にいつもの明るさは無かった。
「交代します」
短くそう言うキースに、ハルは首を振った。
「ですが……いつまで続くかわかりませんよ。
ノア様も俺もこの場を離れないといけない時があります。
その時にこそ殿下にいてもらいたいのです」
キースの言葉はまるでハルを宥めるようだった。
彼の言うことはごもっともで、これは戦と同じ。
長期戦になるのであれば、交代で少しでも休息を取るべきなのだろう。
だが、今は彼女のそばを離れて、眠れる気がしなかった。
「せめて、公爵が戻るまでは居させてくれ」
その願いに、キースは何も言わずうなずいた。
しばらく、沈黙が流れた。
恐らく、キースがこの場を任されるということは、ノアからセラがエリシアだと知らされているのだろう。
そう判断したハルはキースに尋ねた。
「エリシアは……帝国にいれば、ずっとこのような危機にさらされるのか?」
「いえ、セラ様としていらっしゃれば大丈夫でしょう。
今回狙われたのは、恐らくノア様と皇太后陛下です」
「公爵が?」
「今回の茶会は公には皇太后陛下とノア様の密談という形で人払いされていましたから」
確かに、今回の茶会は王国から連れてきた側近にも伝えないようにと、皇太后からの手紙に書かれていた。
ハルとエリシアも二人で街を散策をすると言って外出してきた。
「どうして公爵が狙われる?」
「五年前の皇太子一家が襲撃を受けた事件、あの事件の唯一の生き残りだからですよ。
ノア様はこの五年間、何度も命を狙われています。
毒に夜襲、脅迫……」
そう告げられて、すべてが繋がった。
(だから……迎えに来なかったのか)
帝国が安全でないと、知っていたから。
ハルは、静かに息を吐いた。
胸の奥に残るのは、敗北感と、それでも消えないエリシアへの想いだった。




