執着
side ハル
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
部屋へ戻り、扉が閉まった瞬間、肺の奥に溜まっていた空気が一気に抜けた。
静寂が重い。
痛む腕より、胸の奥がずっと軋んでいる。
怪我など、本気でどうでもいい。ただの口実だ。
――彼女を引き留めるための、みっともない鎖でしかない。
わかっている。
エリシアの心が、もう俺だけに向けられていないことくらい。
椅子に腰を下ろし、受け取ったハンカチを取り出す。
白地に金糸で刺された夜空。
指先で縫い目をなぞると、今日の彼女の距離の近さが、いやになるほど鮮明に蘇る。
世話を焼く手。
迷いながらも離れきれなかった視線。
ほんの一瞬、揺れた心。
――あれだけで、充分だ。
たとえ彼女が最後に選ばなくても。
俺という存在が“傷”として残るなら、それでいい。
ふと気付けば、外は月のない夜だった。
建国祭の夜会――光の途切れた場所で怯えていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
もしかしたら、今も。
思った瞬間、身体が勝手に動いていた。
エリシアの部屋へと向かう廊下は、やけに長く感じられた。
扉の前に立つと、胸の奥でざわりと何かが波打つ。
手を伸ばした、その時――
静かに扉が開いた。
「……アルヴェイン公爵」
自分でも驚くほど低い声がこぼれた。
抑えても抑えても、感情の棘が隠れない。
公爵は驚かなかった。
ただ穏やかに、礼儀正しく目を細める。
「こんばんは。ハルシオン殿下」
「こんな時間に、何の用だ」
噛みつくような言葉。
しかし彼は一切ひるまず、静かな水面のような目でこちらを見ていた。
「呼ばれてお伺いしただけです」
その一言が、刃物みたいに胸の奥へ突き刺さる。
「……帝国の公爵が、こんな夜更けに他国の女性の部屋を訪ねているのを見られたら、困るのは彼女だろう」
「確かに。私の配慮が足りませんでした。申し訳ございません」
淡々とした声。
挑発するわけでも、下手に出るでもない。
理解しながらも、揺らがない。
――その強さが、耐え難いほど癇に障る。
「また……彼女を矢面に立たせる気か」
思わず、声が鋭くなった。
ノアは少しだけ眉を寄せる。
「そんなつもりはありません。
彼女を守りたいと思う気持ちは、殿下と同じです」
まるで、子どもの癇癪を諭すような柔らかい声。
その落ち着きが、胸の奥を灼くように痛めつける。
彼の横をすり抜けようとした瞬間――
ふわりと腕が前に伸びた。
止めるためではなく、ただそこにあるだけの動作。
しかし、それが妙に癇に障る。
「お休みになりました。
今は……寝かせてあげてください」
その態度が火種に油を注ぐ。
「……公爵」
「殿下が勘違いされるようなことは、何もありません」
静かな声。
揺らがない表情。
自分だけがむき出しになっているみたいで、惨めさが増す。
そして、彼の次の言葉が胸をひりつかせた。
「明日、殿下がいらしたことをお知りになれば……きっと喜ばれますよ」
優しく、柔らかく、揺るがない確信を含んだ声。
だからこそ、怖い。
視線がぶつかる。
熱と静けさが衝突した。
夜の廊下で、息が詰まるほどの沈黙が流れる。
やがて公爵が、ふっと微笑んだ。
「それでは、失礼します」
歩き去る背中を見送るしかできなかった。
部屋へ戻って扉を閉めると、拳が震えているのに気付く。
ノアリウス・アルヴェイン。
名を思い浮かべるだけで喉が軋む。
正しい男。
優しくて、まっすぐで、彼女を決して傷つけない。
――最悪な相手だ。
俺ができないことを、平然とやってのける男。
俺は、エリシアを手放すくらいなら壊した方がましだと本気で思ってしまうのに。
彼はそんな醜さを持たない。
「……だから、負けるんだろうな」
自嘲が、静まり返った部屋に落ちる。
エリシアは知らない。
彼女の言動ひとつで俺がどれほど追い詰められるかなんて。
無防備に近づくな。
優しさで縛るな。
そんな顔で笑うな。
――奪いたくなる。
彼女が悲しむ顔は見たくない……。でも、彼女を誰かに取られるくらいなら、何でもする。
矛盾した不毛な感情がぐるぐると頭を巡る。
エリシアがどれほど公爵に惹かれても、
どれほど正しさを選ぼうとしても、
彼女の中から消えたくない。
美しくなくていい。
救われなくていい。
彼女の人生のどこかで、
夜に思い出して、胸が痛む存在でいられれば。
それでいい。
「……好きだ。
どうしようもないくらいに……」
祈りのような呟きは、誰にも届かない。
それでも、俺は明日もエリシアのそばにいる。
失ってしまうくらいなら、誰かに取られるくらいなら……
奪えなくても、奪いに行く。
それが、
今の俺ができる唯一の、愛し方だから。




