2.三年越しの再会に(ミラ視点)
そして、それから、三年の月日が過ぎ、私は十八歳になった。
私は母の残した小さな薬屋を継ぎ、村の中で一人、暮らしている。
最初の一年は、本当に大変だった。
母がいなくなったことも、カイルが姿を消したことも、どちらも私の心の半分を持っていったようで。
朝起きても、隣にいたはずの人たちの気配がもうないのが、息苦しいほど寂しかった。
それでも、泣いてばかりはいられない。
生きていくために、ポーションを作り、薬草を干して、毎日炉の火を絶やさないようにした。
全部を一人でやるとなるとやはり大変な事も多く、最初の頃は失敗する事もあったが、……それでも諦めず、何度も繰り返した。
母が残してくれたレシピノートには、優しい字で注意書きが書かれていた。
『焦ったら、ポーションも焦げる。心を落ち着けて、ゆっくり作ること。』
母らしい言葉だと思う。
私は、母とカイルの分まで、生きなきゃと思った。
三年の月日の中で、少しずつ、村人たちも頼ってくれるようになっていった。
「ミラちゃんのポーションは不思議ね。飲むと心まで楽になるわ」
そんなふうに言われるたび、私は胸の奥がほんのり温かくなった。
あの時、母が言っていた「人を助ける力は、剣よりも強い」という言葉。
それが、ようやく少しわかってきた気がする。
それでも、時々、いまだに夢に見る。
あの日、星空の下で笑った少年を。手のひらの温もりを。
「生きて」と言った私の言葉に、少し照れたように笑って「ありがとう」と返してくれた、あの声を。
夢の中では、いつもカイルは優しく微笑んでくれる。けれど、目を覚ますたび、現実に彼はいない。
それでも不思議と、怒りや恨みではなく、彼のことを守ってあげたかったという気持ちだけが残っていた。
そんなある日、村に大きな知らせが届いた。
勇者一行が魔王を討伐し、ついに帰還したというのだ。
朝から村の広場はその話題で賑わっていた。
子どもたちは勇者の姿を思い浮かべてワクワクと興奮し、酒場では大人たちが「今夜は宴だ」と浮き足立っていた。
王都では凱旋のパレードが開かれ、城下は祝福の歌で満ちているらしい。
私も行ってみようかな、と少しだけ考えた。
でも、その日は常連のトキさんが、リュウマチの薬を買いに来る日だった。
トキさんは腰をさすりながら、いつも決まって言うのだ。
「若い子はいいねえ、ミラちゃん。あんたの笑顔見ると、痛みがやわらぐ気がするよ」
そんな風に言われたら、やっぱり放っておけない。
だから私は、王都に行く代わりに、いつものように店の戸口を磨き、棚を整えた。
昼過ぎにトキさんが来て、買い物よりもおしゃべりの方がずっと長かった。
今日の話題はもちろん「勇者様のご帰還」である。
「王国の姫様とご婚約されたんだってさ。ミラちゃんは姫様にお会いした事があるかい?エメラルド姫は、それはもう気品のあるお姫様でねえ。勇者様も、金の瞳に短い黒髪がよく似合う、たいそう立派なお方だったそうだよ」
金の瞳に黒い髪。その言葉を聞いた瞬間、私はカイルの顔を思い出していた。
まさか、……ね。そんなはず、ない。
だってカイルは出会いこそ変わってはいたが、笑顔の優しい、普通の少年だった。
それに、もし伝説の勇者様なら、あんな形で去ったりしない……。そう思った。
そしてその夜のこと。
店の片付けをしながら、私はふっと息を吐いた。灯したランプの光が、作業台の上を柔らかく照らしている。
この作業台で、かつてカイルと二人で並んで薬を混ぜていた日々を思い出す。
あの時の笑顔、少し不器用な手つき。
笑いながら「これ、飲んだら苦いかな」と顔をしかめていた姿。
でも、今はもういないのだ。
何度も首を振って、自分に言い聞かせる。
いなくなった人のことを考えても、戻ってはこない。
それよりも、今を大切に生きなければ。
母も、きっとそう言うはずだから。
……そう思っていた時、店の扉の鈴が不意に鳴った。
カラン……。
思わず手を止めた。
もう閉店時間はとっくに過ぎている。こんな時間に訪ねてくる人なんて、滅多にいない。
村の人なら遠慮して明日にするはずだ。ならば旅人だろうか……?もしも困ってここを訪ねて来たのならば、力になりたいけれど。
ランプを持ち上げ、私は戸口の方を振り向いた。
「……久しぶりだな、ミラ」
その声を聞いた瞬間、心臓が止まったかと思った。
手に持っていた瓶が滑り落ち、床に落ちて砕け散る。
……まさか。
扉の向こうに立っていたのは、記憶の中の少年ではなかった。
けれど、その目。その髪、かなり低くなっているけれど、優しくよく通る声に、凛とした佇まい。間違えるはずがない。
「……カイル?」
思わず名前を呼ぶと、彼は静かに微笑んだ。
懐かしい笑顔だった。
けれど、あの頃の少年とは違う、二十歳前後に見える逞しい姿。
短く整えた黒髪が月明かりに揺れ、金色の瞳は、夜の灯を宿したように鋭く光っていた。
頬にはかすかな傷跡。背中には立派な剣。いや、見覚えのある紋章が刻まれた、聖剣が背負われている。
そして、当時はずっと手袋で隠していた彼の右手の甲には、光の紋が刻まれていた。
それは、伝説の勇者だけが天命により授かるという「勇者の印」。そして、その手の中には、無くなっていた、母の形見の銀のブローチが大切そうに握られていた。
「……ミラ。やっと魔王を倒せたよ。君を……守れた」
守れた。
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「……勇者……? え、……あなた、勇者だったの?」
「うん。ずっと言わなくて、ごめん。……あの時の俺は、一度魔王に負けて魔力を封印されてて、見た目も子どもみたいだった。自分のことを話せる立場じゃなかったんだ。……姿が戻った時も、言い出せなくて。本当にごめん」
信じられなかった。
けれど、あの手の印を見れば、否定することはできない。
あの時の少年が、世界を救った勇者?
頭が追いつかなかった。
驚きと、戸惑いと、何か遠いところから押し寄せるような悲しみ。
「君が助けてくれたから、俺は生き延びられたんだ。君が“生きろ”って言ってくれたあの夜、あの言葉だけが、ずっと支えだった」
カイルはそう言って、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔が、あの森の夜に重なって、胸が締めつけられる。
けれど同時に、三年間の孤独が、私の中で静かに疼き出した。
……なぜ、何も言わずに消えたの。どうして、あの時、私を置いていったの。
口を開きかけた私より先に、カイルが言った。
「もう危険はない。だから……また一緒に暮らそう。前みたいに、穏やかにさ」
前みたいに。
その言葉に、胸の奥がざわめいた。
前みたいに、なんて、もう、できるはずがない。
「ごめんなさい、カイル。……もう、前みたいにはできないわ」
声が震えた。
驚きと、怒りと、どうしようもない悲しみが入り混じって、言葉に力がこもる。
胸の奥で、ずっと抑えていた感情が一気に溢れ出していた。
「あなたがいなくなって、私……すごく悲しかったの。母が亡くなって、たった一人になって……それでも、隣にあなたがいてくれたから頑張れてたんだって、あなたがいなくなってはっきり分かった。なのに、何も言わずに……母のブローチまで持って行って……」
嗚咽まじりの声は、夜の空気を切った。
あのブローチは母の形見で、私にとって何よりも大切な思い出だった。
高価なものじゃない。でも、なくてはならないものだった。
カイルは黙って俯き、静かに立ち尽くしていた。
そしてゆっくりと一歩踏み出して、私の手を優しく掴み彼に引き寄せて、手のひらにブローチをそっと乗せた。そのまま大きな手で、私の手を包み込む様に握り続けたまま、続ける。
「……言わずに出たことは、謝るよ。本当に、ごめん」
その声は低く震えていて、まるで私に届くのが怖いかのようだった。
「死んでしまったと思っていた仲間が生きていたんだ。だからもう一度、……今度こそ魔王を倒しに行く事をみんなで決めた。でも、死ぬかもしれない旅だったから。……行く前に君に会ったら、決意が揺らぐと思ったんだ」
私は息を飲む。
その瞳に嘘はなく、昔と変わらぬ真っ直ぐさがあった。
それが、余計に胸を苦しめる。
「危険なことに君を巻き込みたくなかった。それでも、君を忘れるなんてできなかった。もう大丈夫だよ。だから、今度こそ一緒にいよう」
その声は低く、柔らかく、懐かしい子守歌のように私の心をくすぐった。
けれど、私は首を振るしかなかった。
「……やめて。そんなふうに言われても、困るわ」
唇を噛み、視線を逸らす。
涙は出そうで、でも絶対に見せたくなかった。
「私はもう、一人で生きていくって決めたの。あなたがいなくなった日から」
「一人で、か……」
少し寂しそうに笑うカイルの顔を見て、胸がキュッと痛んだ。
「ミラは強いな。でも、俺は……一人では生きていけない。俺はこの先、君と一緒じゃなきゃ、生きてる意味がないんだ」
その言葉に、胸が痛んだ。どうしようもなく息が詰まる。
ずるい。こんな目で見られたら、怒りも悲しみも、どこかに消えてしまいそうになる。
「……カイル。でも、私はもう、あなたにも、誰にも頼らないって決めたの。いざって時、助けになるのは自分だけだって、そう思うから。……私は一人で生きられるようにならなきゃ」
「……うん。頼らなくていい。それでも、俺が勝手に守るから」
その一言に、私は目を見開いた。まっすぐすぎて、真剣すぎて、息が詰まる。頭の中が真っ白になりそうになる。
「やめて。……そんな顔しないで。せっかく決めたことが揺らいじゃう……」
手を振りほどこうとした。でも、カイルの手は離れない。
触れた手のぬくもりが、私の決意をじわりと溶かしていく。
「ミラ、俺は君に何も言わずに出て行ったことを、ずっと後悔してた。だからせめて、これからの人生で、少しでも償わせてほしい。……君のそばにいることで」
「償いなんて、いらないわ……」
「でも、俺はそうしたい」
声が震えて、耳元で低く甘く響く。
その声を聞いた瞬間、胸の奥で固まっていた何かがふわりと緩む。
「ミラ……今さらだけど、聞いてほしい」
耳元で囁かれるその声は、甘く、私の心をくすぐる。
涙がこぼれそうになるけれど、堪える。
胸の奥が熱くて、でも、泣きたくて、混乱して、頭がぐらりと揺れる。
「俺がブローチを持っていったのは、君の命を守るためだった」
「……守る?」
「あれには魔法をかけてあった。君が生きているか、どこにいるか、遠くにいても感じられるように。魔王の呪いが広がっていた。村ごと滅ぶ可能性だってあった。 だから……少しでも君を守れるようにと思って」
唇が震える。
それが真実だと分かるほど、瞳はまっすぐで、嘘がない。
「俺は、君を置いていくのが怖かった。……でも、連れて行く方がもっと怖かったから、だから……」
私の手を優しく包みこんでいたカイルの手が上に上がり、今度は私の頬にそっと触れた。
心臓が跳ねる。
彼の手の温もりは、安心と痛みを同時に運んできた。
「君を戦場に連れて行くくらいなら、命を守る方法だけでも残したかった。……あれが俺なりの、誓いだった」
その言葉に、胸の奥で三年間凝り固まっていた憎しみが、静かに溶けていく。
涙がひとすじ、頬を伝う。
「……どうして、言ってくれなかったの」
「……君に会ったら、俺は絶対に離れられなくなるから。……俺は弱い。それを分かってたから。君を置いていく勇気も、忘れる覚悟も、持てなかった」
囁きが、耳元を撫でるように甘い。息が触れた瞬間、涙が出そうになるのを堪える。
「……私を、置いていったのに」
震える声で告げる。それでも、心の奥底では、戻ってきてくれた喜びが消えずにいた。
「それでも、まだ……そんなふうに優しいこと、言うの?」
「優しい? そうか。優しいって思ってくれるのか……。ミラこそ相変わらず、優しいな。……なあ、ミラ。俺はもう二度と、君を手放す気はないからな」
「っ……カイル……?」
「ミラ。あの日、君に命を救われて、俺は生きる意味をもらった。だから今度は、俺が君の生きる意味になりたい。お願いだ。君の世界を、俺に守らせて欲しい」
カイルは少し泣きそうな顔で、微笑んだ。
「カイル、それは卑怯だわ。……そんなふうに言われたら、もう怒れないじゃない……」
私がそう言って微笑むと、カイルも優しく微笑み返してくれる。
その笑顔が、昔見た彼に重なった。
「あなたも私のこと、本当の家族……、姉弟みたいに思ってくれてたって分かって、本当に嬉しい。 私も、ずっとそうだったから……」
ふふ、と笑いながらそう言うと、先程まで幸せそうに微笑んでいたカイルが、何故か眉を少し寄せて腑に落ちない様な表情になった。
どうしたのかしら、と思いつつ、私はふと、思い出した事を口にした。
「そういえば、今日、常連のお客様から聞いたんだけど、あなた、エメラルド姫様と結婚するんですってね」
そして、慈しみを込めた笑顔を彼に向けて、心を込めて言う。
「本当におめでとう、カイル。……王城に入ったら、頻繁にはお店に来れないだろうけど、時々は遊びに来てくれたら嬉しいわ」
私がそう言ったその瞬間、その場の空気が一気に冷たくなった。主に、カイルの周りを中心にして。
彼の目が、鋭く私を射る。
「はぁ……?」
驚くほど低く、冷たい声が彼の口から漏れた。
「あ、……さすがに無理よね。カイル、ゆくゆくは王様になるんだものね」
弟の様に思っているとはいえ実際は他人なのに、ちょっと調子に乗りすぎたかしら、と少し恥ずかしくなって少し頬を染める。
でもそこまで怒らなくても良いんじゃない?と内心で思いながらそう言うと、彼は腹立たしげに、前髪をぐしゃりとかきあげた。
「……違う。姫の相手は俺じゃない」
そして、一つ大きくため息を吐いて、言った。
「……ああ、そうか……。君が、全く何もわかってないってことが、今、はっきり分かった」
金色の瞳で、まるで獲物を狩る獣の様に、鋭く私を睨みつけて、彼が続ける。
「確実に悪いのは俺だし、君のペースに合わせてゆっくり攻めようと思っていたけど、もういい。……攻め方変える」
状況がよく分からず、急に雰囲気が怖くなったカイルにポカンとしつつ何も出来ずに立ち尽くしていたら、突然彼に強く抱き寄せられた。
背中に伝わる力強さに、私は身動きができない。
動揺で心がいっぱいのままいると、彼の指が私の顎をそっと上に向けた。
「ミラ、俺は君を姉弟のように思ったことなんて、一度もない……。 俺は、君が好きだ。戦っている間も、死にかけた時も、頭に浮かんでいたのは、君の笑顔だけだった」
彼の力強い瞳で見つめられ、私は視線を逸らせなくなる。心臓がドキドキとうるさく脈を打つ。
「俺の好きは、出会った頃から変わらない。……君の事を守りたいと思うと同時に、君の全てが欲しいと、これまでずっと、そう思い続けてきてた」
その言葉を言い終えると同時に、彼の唇が私の唇を塞いだ。
「俺の『好き』は、こういう好きだ」
口付けのあと、唇を離して少し頬を赤く染めながら真面目な顔でそう言った彼に、私の世界が一瞬、静止した。
そして、その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥がじわじわと熱くなって、頬がさらに火照っていくのを自分でもはっきりと感じていた。




